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100年手つかずの「法」 宿題解決 共通の思いを【最後の砦 刑事司法と再審㉗第6章 遠き「黄金の橋」⑤完】

 島田市で1954年に幼女が誘拐・殺害された「島田事件」で死刑が確定し、89年に静岡地裁で再審無罪となった赤堀政夫さんが、2月22日に死去した。享年94。荼毘(だび)に付された日、長年の支援者だった鈴木昂さん(84)は、藤枝市の自宅で「果たせなかった宿題がある」と語った。

赤堀政夫さん、袴田巌さんらの再審支援を続けてきた鈴木昂さん。再審法の改正は「果たせなかった宿題。私たちが背負うべきだった」と率直に打ち明ける=2月26日、藤枝市内
赤堀政夫さん、袴田巌さんらの再審支援を続けてきた鈴木昂さん。再審法の改正は「果たせなかった宿題。私たちが背負うべきだった」と率直に打ち明ける=2月26日、藤枝市内

 死刑制度の廃止に加え、再審法(刑事訴訟法の再審規定)の改正だ。79年に財田川、免田、松山の3事件の再審開始が相次いで認められた後、島田事件の支援団体が編集した折り込み通信は〈なぜ再審がなかなか開かれず、開かれたとしてもそれまでに何十年もかかるのか〉と疑問を呈した。
 振り返れば、島田を含めた四つの死刑事件が再審無罪となった80年代は法改正する最大の好機だった。鈴木さんは「もちろん改正しなきゃいけないと言っていた。だけど、(他事件の団体と)統一的なことはできていなかった」と省みる。
 赤堀さんの救援が実現すると「やれやれというところがあったと思う。私もそうだった」。再審無罪を勝ち取るまでに35年の月日が費やされる中で「みんな、私生活を相当犠牲にして活動していた」と思い返す。無罪で一息つく心境は当然の成り行きだった。袴田巌さん(87)の支援を続ける鈴木さんは、夏以降とみられる判決の先を懸念する。「(法改正運動の)潮が引く危険はあるよ、本当に」
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 日本で初めて再審制度が法で定められたのは治罪法(1882年施行)とされる。明治刑訴法(同90年)に続く大正刑訴法(同1924年)は被告側に不利益な再審も認めていたが、現行刑訴法(同49年)では日本国憲法に照らして廃止。しかし、それ以外は大正刑訴法を引き継いだ。再審法が100年変わっていないと言われるゆえんだ。
 国会でも議論が盛んだった時代はあり、衆院法務委員会に再審制度を調査する小委員会が置かれていたことも。今、国は「不備はない」とにべもないが、70年代には法務省の刑事局長が国選弁護人制度の導入などを念頭に「再審制度の手直しには前向きで取り組んでいきたい。その決意も固めておる」とも述べている。
 最高裁は75年、いわゆる「白鳥決定」で、刑事裁判の「疑わしきは被告人の利益に」という鉄則は再審請求審にも適用されると判示した。新旧全ての証拠を総合的に評価すべきと求め、四大死刑冤罪(えんざい)事件の救済につながった。
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 一方、白鳥決定の精神を踏まえれば再審法の改正を待つことなく雪冤(せつえん)できうるとの考えも浮上。また、検察当局の対応にも影響をもたらした。最高検が内部に設けた再審無罪事件の検討委員会は86年の報告書で、確定審に未提出の証拠を再審の請求人に開示することについて〈証拠あさりを許すようなことがあってはならない〉と限定的な姿勢を鮮明にした。
 結果として再審法は改正されず、担当裁判官の姿勢によって再審請求審の進め方も証拠開示の可否も左右されている状態のままだ。
 袴田さんの米寿の誕生日から一夜明ける3月11日。長い時を経て、再審法の改正を目指す超党派の国会議員連盟が始動する。「一歩も二歩も前進」(袴田さんの姉ひで子さん)だが、手つかずの「宿題」を解決できるかどうかは世論によるところが大きい。鈴木さんは説く。「運動は広がりを見せないと長続きしない。共通の思いを持てれば、改正への足掛かりになる」
 (「最後の砦」取材班)

 <メモ>刑事法の第一人者、故団藤重光氏(1913~2012年)は現行刑訴法の制定に携わり“生みの親”として知られた。元裁判官の木谷明弁護士は、その団藤氏が「あのときは精も根も尽きた」として、限られた時間の中で再審規定にまで手を付けることができなかったことを振り返るのを直接聞いたことがある。団藤氏は最高裁判事として白鳥決定に関与。再審の門戸を広げようとした背景に「(再審法を)十分に手当てができずに残念な気持ちがあった」と木谷弁護士はみる。

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