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教誨師 支援運動の礎に【最後の砦 刑事司法と再審㉔第6章 遠き「黄金の橋」②福岡事件㊤】

 再審特例法の制定を模索した神近市子衆院議員が、島田事件の主任弁護人を務める鈴木信雄弁護士に協力を依頼したのはなぜか。神近議員からの手紙に理由の一端がのぞく。〈福岡事件では「類似事件関係者と連携して新しい運動を展開しよう」とされているようです。これはぜひ必要〉―。

福岡事件の再審運動を始めた古川泰龍さん(左)と神近市子衆院議員。特例法の成立に向け奔走した(古川龍樹さん提供)
福岡事件の再審運動を始めた古川泰龍さん(左)と神近市子衆院議員。特例法の成立に向け奔走した(古川龍樹さん提供)

 「福岡事件」とは、戦後間もない1947年に福岡市で起きた殺人事件。軍服の闇取引の最中に、中国人と日本人の商人2人が射殺された。西武雄さん=当時(32)=が首謀者、石井健治郎さん=同(30)=が実行犯とされ、計7人が強盗殺人罪で起訴された。西さんは「取引の手付金として現金を持ち帰ったが、事件とは無関係」として無実を主張。石井さんは抗争相手が撃とうとしてきたと勘違いし「誤射してしまった」と過剰防衛を訴えたが、56年に死刑判決が確定した。
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 死刑囚の誤判を確信したのは、福岡拘置支所で2人と向き合ってきた教誨(きょうかい)師だった。熊本県玉名市の僧侶、古川泰龍さん(1920~2000年)。捜査や裁判の公平性に疑問を持ち、意を決して61年、裁判のやり直しを求める再審運動を始めた。各地に散らばった関係者を訪ね歩いて調査を重ね、63年には原稿用紙2千枚の「真相究明書~九千万人のなかの孤独」を完成させた。
 死刑囚の再審は前例がなかった時代。「死刑を執行させない」と誓い、全てをなげうって取り組んだ。当時まだ幼かった古川さんの四女、龍衍[りゅうえん]さんは「生活と運動が一体化していた」と記憶する。
 神近議員が古川さんと出会ったのは64年ごろとみられる。雑誌「中央公論」への寄稿によると、佐賀県の唐津で托鉢(たくはつ)中の古川さんと遭遇。再審運動の話を聞いて「ご苦労さま、ご成功を祈ります」と伝えたところ、一緒にいた自身のおいっ子からこう笑われたという。「ご成功を祈りますって、おばさま方は成功するように加勢する義務はないのですか。古川さんたちはもう20万人の署名をもらい、喜捨した人は何十万人になっているでしょう。これは『国民の声』の一つではありませんか」
 その後、再審特例法の成立に情熱を燃やした神近議員。古川さんが寄せる信頼は厚かった。「父はいつも神近さんの写真を飾っていた」と龍衍さんは明かす。
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 福岡事件の再審運動は64年、期せずして一躍全国区となる。きっかけは西口彰元死刑囚(70年執行)。弁護士を装い、古川さん方を訪ねて再審運動への協力を申し出た。しかし実際は、浜松市で母娘を殺害するなど全国で5人をあやめた指名手配犯。浄財があると踏み、奪おうとたくらんだ。
 ところが、10歳に過ぎなかった龍衍さんの姉が正体を見破り、一家の連携で西口元死刑囚は御用となる。逮捕を伝える静岡新聞は、浜松の遺族の受け止めとともに、一連の経緯を説明する古川さんの記事と写真を掲載した。数々の感謝状が贈られ、多くの著名人が再審支援に名乗りを上げた。
 古川さんは後年、本音をこう書き記している。〈もし私がだまされて、強盗殺人犯を弁護士と信じていたとしたら、再審運動も終焉(しゅうえん)を迎えていたであろうと思われる〉

 <メモ>1968年当時に福岡事件の支援に名乗りを上げていた人物として、作家の松本清張や評論家の青地晨、落語家の八代目林家正蔵、弁護士の正木ひろしらの名前が記録されている。古川泰龍さんの妻美智子さんがつづった「悲願」によると、「西口事件」の後、西口彰元死刑囚の父からは凶行を止めたことへの礼状が届いた。泰龍さんは西口元死刑囚の子どもの就職にも協力したという。

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