テーマ : 静岡市

個別最適な学びへ 宿題や家庭学習どう取り組ませる?④ しずしんニュースキュレーターと読者の意見【賛否万論】

 前回までの賛否万論では宿題や家庭学習の現状について、学校や地域がどう取り組んでいるか、また現場の教師や教育業界を目指す学生がどう感じているかを紹介してきました。多様化する価値観の中で、子どもたちにとって理想的な「放課後」のあり方を改めて見つめ直すことが、個別最適な学びの実現に近づくヒントになるかもしれません。今回はキュレーターと読者から寄せられた声を紹介していきます。

画一的内容でも 運用工夫すれば
キュレーター 江口裕司さん(三島市)


 

 

製造会社で米国勤務後、設計、製造、調達、翻訳、ISO、社内教育など多様な業務に携わり定年退職。現在、パートの傍ら大学再入学を目指し勉強中。65歳

 前回の「賛否万論」テーマ「不登校でも『学校』に行かせるべき?」では、義務教育の二面性に着目しました。憲法上の能力的な平等と事実上の画一的な平等です。宿題のあり方にも同じ矛盾がありそうなので、経験や耳学問から考えてみます。
 私が放課後児童クラブで宿題サポートをしたときの経験談です。繰り下がりのある引き算で「江口先生、なんで隣の位から10もらうの?」と混乱する子が少なくありません。探究心の強い子は教科書通りの説明に納得できず、百や千の位なのに10を繰り下げることが不思議なようです。このことを大人はきちんと説明できますか?(説明に窮した私はこの歳で筆算を猛勉強する羽目に)。宿題は生徒が疑問を発信し教師が解決を促す手段として利用すれば、主体的・対話的な深い学びにつながると感じた次第です。
 東京都千代田区麴町中の元校長工藤勇一氏は、宿題や校則など学校教育における「手段」が、本来の意図ではなく形式にとらわれた「目的」になっていることを問題視しています。工藤氏は著書で「弱点を見つける手段が宿題。それを克服する方法が勉強。この往還を育む学校の目的は自律」と定義し、「やらせっぱなしが目的化した宿題は意味がないので廃止した」と説明します。筆算の教えでつまずいた私にとって、妙に腹落ちする主張です。文部科学省の総花的な教育方針も極論すれば「自律」の2文字に尽きると思います。弱点は個々に違うのに、全員一律に出しっぱなしの宿題では能力に応じた平等も自律も期待できません。評定に利用したい教員事情や成功ストーリーに絡めたい保護者都合が宿題を目的化させていないか顧みる必要はありそうです。
 とはいえ、単純に宿題不要論を唱えるつもりはありません。面白くない宿題でも我慢強くやり抜く「非認知能力」も必要だと思います。必要最低限な知識の学習は一律に徹底すべきだと考えます。その基礎学力なしにアクティブ・ラーニングは期待できそうにありません。一人一人にカスタマイズした宿題は現実的に無理ですから、内容は画一的でも良い。問題は運用の工夫かと。例えば、何にどう困ったのかを自由に記述させ、教師と生徒がその弱点の克服に向け対話できるような運用の柔軟性がほしいですね。
 絶対NGなのは懲罰的な宿題。折しも、静岡市の小学校で宿題を忘れた児童たちに、担当教諭が教室内で土下座させた記事(2月2日付)を読みました。精神的苦痛を与え、思考停止させる宿題など権力の道具でしかありません。未曽有の幕開けとなった2024年。まさに自律と自立は日本を生きぬく力と感じます。教育の本質を見失うことなく、学校と家庭が協働的に学習方法をアップデートし続ける必要がありそうですね。

「やることやる」責任感、自己肯定感の土台に
キュレーター 寺子屋たっちゃんさん(静岡市)


 

 

私学教育に携わり50年超の人情家。「人は多士済々」。ことし後期高齢者となる

 学校における授業形態は一斉授業がベースとなっていました。ところが昨今、個の学力を個に応じて伸ばそうという考え方が主流となり、個別最適な学習が文部科学省の指導として打ち出されました。つまり、教員と児童、生徒との対面授業のほかにICTを取り入れ、児童生徒の学習適応能力に応じた学習方法を取り入れたわけです。
 学習能力が高いもしくはやや劣る児童生徒にとっては、それぞれメリットがあると思われます。これはあくまでも学習という観点からのことです。宿題も学習効果を高めるという目的からすれば必要不可欠なものと考えます。知識の確定を図るため、習った事柄を宿題として復習することは必要なことです。
 このこととは別に、宿題をやることには重要な意味があるかと思います。それは「人生における生き方の訓練になっている」ということです。やらなければならないことはやらなければならないという責任感や自己肯定感の養成です。宿題をやらなければ、という義務感の育成(訓練)は社会人になったときに周りの評価につながります。
 学習効果を高めることは大切ですが、もう一つ大切なこと(こちらのほうが大切かもしれませんが)を忘れてはいけません。それは「非認知能力」の養成です。非認知能力とは、積極性、忍耐力、協調性、指導力等の学習効果として数値では測れない能力を言います。学習で身についた能力よりも、非認知能力の方が社会を構成する私たちにとっては大切なものではないでしょうか。この能力はいろいろな児童生徒が一堂に会す学校やボーイスカウト、各種スポーツクラブなどで学べます。ですから、義務教育のうちは学校へ出かけてほしいのです。しかし、諸般の事情で通学できない児童生徒を無理やり行かせる必要はないのではないか、ということは「賛否万論」の前回テーマ「不登校でも『学校』に行かせるべき?」でも述べたとおりです。
 結びとして、現代の学習は西洋の教えに由来する部分も多いです。これはとても大切かと思いますが、われわれ日本人が伝統として受け継いできた日本的学習に「燻習[くんじゅう]」というものがあります。親の、師の、仲間の背中を見て学び、長い時間をかけて自分のものとする学習です。人のふり見てわがふり直せ、ですね。


精神論より過程のチェックが大事
読者 アオアシさん(静岡市葵区) 団体職員 44歳
 2月23日付の「賛否万論」を読んで初めて投稿します。東京学芸大付属世田谷小の沼田晶弘先生の話は大変興味深かったです。
 印象的だったのは、「次の目標を提示した上で褒める」という箇所。私自身小学生の子どもがいますが、勉強でもスポーツでもついつい「とにかく頑張れ。頑張れば結果はついてくる」と精神論を押し付けてしまいがちです。当然といえば当然のことですが、なぜその問題が解けなかったのか、過程をチェックしないと本当の理解にはなりません。キャンプの火おこしへの例えもわかりやすかったです。子どものやる気に火をつけるには、炭を育てる根気が必要、その通りですね。
 一方で、親が粘り強く子どもの勉強に向き合う大切さは理解しつつ、「自分が子どもの時に親は何をしてくれたのだろう」と疑問も浮かびました。正直自分の親は、子どもの勉強にそこまで関与していませんでした。宿題を見てもらった経験もほとんどありません。自分自身が周囲に置いていかれないように、勉強をしたに過ぎません。学歴が全てでは無いですし、時代の変化と言ってしまえばそれまでですが、最終的に学力に向き合うのは子ども本人なのです。
 自分の子どもには、しっかりとした学力をつけてほしいと思っています。だからこそうるさく言ってしまうのですが、果たして「しっかりとした学力って何」とも自問します。成績がよいイコール地域の進学校に進み、有名大学へ、という道筋を求めているのか、沼田先生の言う「マイスペシャル」を伸ばし、専門分野を進むのか、いざ進路選択に直面した際、親として素直に受け止められるか不安です。
 親として子どもの夢の実現の後押しはもちろんしたいです。選択肢が増えた現代だからこそ、親の価値観、度量が問われている、そんなふうに感じます。

次回も同じテーマで、しずしんニュースキュレーターや読者の意見を紹介します  ご意見お寄せください
 子どもたちにとってどんな“放課後の学び”が理想だと考えますか。各家庭や学校での取り組みやエピソードなど幅広い視点の投稿をお待ちしています。
 宛先は〒422―8670(住所不要) 静岡新聞社編集局「賛否万論」係、<ファクス054(284)9348>、<Eメールshakaibu@shizuokaonline.com>

 キュレーター
 「しずしんニュースキュレーター」は、新聞記事や時事問題の“ご意見番”として、静岡新聞の記者が推薦した地域のインフルエンサーです。毎回それぞれの立場や背景を生かしたユニークな視点から多様な意見を寄せてもらいます。

いい茶0

静岡市の記事一覧

他の追っかけを読む
地域再生大賞