大自在(8月12日)ルース五輪監督
静岡市の草薙球場の前に、沢村栄治とベーブ・ルースの銅像が対峙[たいじ]する。1934年11月20日の日米野球。全日本が沢村の快投でスターぞろいの全米大リーグ選抜に0―1と互角の戦いを演じた。
“野球の神様”ルースは、その時39歳。現役最終盤での来日だったが、18試合(日米混合紅白戦含む)で13本塁打と大暴れ。日本のファンを熱狂させたことは想像に難くない。
翌年引退したルースは、36年のベルリン五輪の公開競技に参加する米国野球チーム監督就任を打診された。要請したのは米国アマチュア野球協会会長のレスリー・マン。ノンフィクション作家の山際康之さんの「プロ野球VSオリンピック」(筑摩書房)に記された逸話に驚いた。
マンは元シカゴ・カブスの外野手。ボストン・レッドソックスの投手だったルースと対戦経験があった。ルースは監督就任を承諾したが、ベルリンに姿を見せなかったという。マンは40年東京大会こそと期待したが、日本は日中戦争で五輪開催を返上した。
ルースが活躍した日米野球の盛り上がりを契機に誕生、発展したのが、日本のプロ野球といえよう。90年近くたち、海を渡った規格外の選手が、日本のみならず、米国のファンも沸かせる。大谷翔平選手が104年ぶりにルースに並ぶ2桁勝利2桁本塁打を達成した。
2024年パリ五輪で野球は除外されたが、来年はワールド・ベースボール・クラシックがある。日本の監督は大谷選手の日本ハム時代の恩師、栗山英樹氏だ。侍ジャパンのユニホームをまとった二刀流を、ぜひとも。