テーマ : 動物・ペット

ゾウの花子を追う㊤ 「焼津に昔ゾウがいた?」依頼を受け調査開始 物語の始まりは清水だった【NEXT特捜隊】

 「父が若いころ、焼津にゾウがいたそうです。どこに、なぜ。詳しく知りたいのですが、調べてもらえませんか?」。焼津市に住む20代男性から静岡新聞社「NEXT特捜隊」に依頼が寄せられた。

ゾウの花子について報じる、1976年当時の静岡新聞記事
ゾウの花子について報じる、1976年当時の静岡新聞記事
1976年当時の静岡新聞に掲載されたゾウの花子
1976年当時の静岡新聞に掲載されたゾウの花子
1976年当時の静岡新聞に掲載されたゾウの花子
1976年当時の静岡新聞に掲載されたゾウの花子
ゾウの花子について報じる、1976年当時の静岡新聞記事
1976年当時の静岡新聞に掲載されたゾウの花子
1976年当時の静岡新聞に掲載されたゾウの花子

 動物園がない焼津にゾウ? さっそく焼津出身の方に聞いたり、過去の資料に当たったりしたところ、ほどなく「1970年代後半の一時期、焼津にゾウがいたらしい」ということまでは見えてきた。
 当時の静岡新聞紙面に記載がないか調べてみたところ、1976年6~8月の紙面に記事が見つかった。同年6月7日の記事には「2000キロはるばる”花子”が来た!!」という見出しが躍る。しかし、この記事で「来た」とされたのは清水市(現・静岡市清水区)のことだ。
 記事によると、ゾウの名前は「花子」。北海道、札幌の円山動物園出身で、「クル病」という骨が軟化する病を患っていた。清水に来る直前まで約8年、北海道の温泉地で療養生活を送っていたが、より暖かいところで治療するため、清水市(現・静岡市清水区)の三保文化ランドに移住したという。当時、14歳だった。
 当時、三保文化ランドを管理していた東海大海洋学部に問い合わせたところ、花子を直接知る職員はもういないということだったが、花子が来たことを伝える大学新聞が残っていることが分かった。1976年6月20日の「東海大学新聞」272号。「花子さんがやってきた」と写真入りで掲載されている。

 
花子が三保文化ランドに来たことを伝える東海大学新聞273号の記事(東海大学学園史資料センター提供)
 

 記事によると、花子が清水にやってきたのはこの年の6月6日。<自分の足で立ちあがることのできない花子を「暖かいところで療養と歩行訓練を」という信田さんの願いに「象の花子の会」が動かされ、そのあっせんで三保文化ランドへの引っ越しが決まり、鉄骨プレハブ建て七七平方メートルの象舎と信田さんの家がつくられた>と書かれている(※表記は当時のまま)。
 取材を総合すると、信田さんとは、花子の世話をしていた北海道の剥製家信田修治郎氏。「象の花子の会」という支援団体も東京で活動していたようだ。


清水に移住後、2カ月で焼津へ 花子に何が?
 

 さらに当時の新聞報道などを追っていくと、花子が焼津にたどり着いたのは清水に来てわずか2カ月後の8月だったと分かった。この2カ月の間に何があったのだろう。
 再び静岡新聞社内に残る資料を徹底的に見直したところ、1976年8月12日の静岡新聞紙面、「病いの象に商法無情」という見出しの記事に詳しく書かれていた。もともと花子の清水入りはクル病の治療が目的であったため、「花子を見世物にしてはならない」と、県から行政指導があった―とある。
 行政指導を守り、三保文化ランドは園の外に象舎を建設した。しかし、信田氏の主張によると、花子を見るために来場した客から入場料をとるなど、「花子が商売の道具にされている」ように信田氏は捉えたらしい。
 そうして花子の引き取り先である三保文化ランドと、世話役の信田氏の間に亀裂が走ったのだろうか。その後8月15日、「やっと安住の地に 花子、象舎に落ち着く」という記事の中で、焼津市栄町の海洋牧場という会社が花子を引き取ったと書かれている。
 行政指導の内容について、静岡県の健康福祉部衛生課動物愛護班に問い合わせてみたところ、当時の資料は残念ながら残っていなかった。担当者は「病気の治療が目的ということなので、動物福祉の観点から(見世物にしてはならないという)指導がされたのでは」と推察した。当時、花子は本当に「見世物」になっていたのかについては、確たる情報を得ることができていない。
 花子はその後、どのような生涯を送ったのか。取材を継続した。 ⇒に続く

いい茶0

動物・ペットの記事一覧

他の追っかけを読む
地域再生大賞