【静岡の高校サッカー戦後史Vol.15】藤枝東の“最弱チーム”を甦らせ、日の丸を背負った選手たち
【藤枝東高⑥】屈辱乗り越え国体4強
※2011年3月〜11月に「静岡の高校サッカー 戦後の球跡」のタイトルで静岡新聞に掲載した連載を再掲しています。年齢等も掲載当時のままです。藤枝東は1957年(昭和32年)の一巡目静岡国体を制したのをきっかけに、全国的強豪としての地位を固めていく。
全国選手権は初出場した55年度以来、連続出場を続けるだけでなく、56年度から60年度までの5年間、ベスト4が3回、ベスト8が2回と常に上位に進出した。国体も59年には3位に食い込んで、歴代優勝校にふさわしい実績を残した。
しかし61年度を迎え、上昇階段を上る歩みにブレーキがかかった。
藤枝北に0−7で敗れた日「街を歩けなかった」
5月の県スポーツ祭は順当に勝ち上がり、決勝で藤枝北と対戦した。全国総体開始5年前で、現在、5月を中心に行われている総体県予選はなく、スポーツ祭の注目度は高かった。“春の覇者”をかけた一戦で、好敵手・藤枝北に0−7とよもやの大敗を喫した。この年の藤枝北は実力派をそろえていた。とはいえ、全国的強豪としての地位を固めつつある藤枝東にとっては、あまりにも衝撃的な敗戦だった。
藤枝東のサッカー部OB名簿に掲載されている61年度の卒業生は、わずかに2人。3年生の一人だった滝本義三郎(焼津市在住)によると「3年生が2人だけだったこともあり、史上最弱とさえ言われた」。その上、ライバルの藤枝北に大敗を喫したとあって周囲の目は厳しく、2年生でも「街を歩けなかった」(山口芳忠=東京都世田谷区在住)ほどだ。
最弱と酷評されたチームだが、そのまま沈み込んでしまうことはなかった。夏休みの間中、安藤錠(現・林、愛知県春日井市在住)らOBが駆け付けて熱血指導。主将の富沢清司(焼津市在住)は「何とかしなければ」との強い思いから、滝本との二人三脚で若いチームをまとめ上げた。
富沢、山口は東京、メキシコ両五輪に出場
秋になると、チームは生まれ変わっていた。国体予選決勝で再び対戦した藤枝北に、今度は3−1で逆転勝ち。秋田で行われた国体本番は準決勝まで駒を進め、全国上位常連校の意地をみせた。全国選手権も県を勝ち抜き、本大会連続出場記録を7に伸ばした。本大会は1回戦敗退と不本意な結果に終わったが、春に屈辱を味わいながらも夏以降、躍進をみせたことが、翌年度の大飛躍につながっていく。
3年生の一人、富沢は後に日本代表入りし、後輩の山口とともに東京、メキシコ両五輪に出場。もう一人の滝本は中学教師の道を選び、地域からサッカーを支えた。(敬称略)
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