
【静岡の高校サッカー戦後史Vol.10】藤枝東高が1953年、初めて全国舞台に!伝統校への道のりはここから始まった
【藤枝東高①】死力尽くし国体初出場
※2011年3月〜11月に「静岡の高校サッカー戦後の球跡」のタイトルで静岡新聞に掲載した連載を再掲しています。年齢等も掲載当時のままです。
1953年秋の国体初出場を目指した戦い(「藤枝東高サッカー六十年のあゆみ」から)
選手権4回、総体と国体、それに全日本ユース(U-18)いずれも2回、合わせて10回の全国制覇を誇り、選手権出場は23回―。1924年(大正13年)の学校創設と同時にサッカーを「校技」と定めただけあって、藤枝東の実績は際立っている。
ところが、藤枝東の戦後の全国初舞台登場は1953年度(昭和28年度)の愛媛国体まで待つことになる。というのも、戦後数年間は、1948年度の福岡国体に出場した浜松一と1950年度愛知国体代表の浜松西の浜松コンビ、51年正月の選手権に駒を進めた静岡城内に圧倒されていたからだ。
といっても、そこは戦前から名をはせた実力校。旧制志太中から「志太高」、「藤枝高」と校名が変遷するのに呼応するかのように着実に勢いを盛り返した。
1951〜1953年度・国体予選
1951年度の国体予選は「藤枝高」として臨んだ。県大会を初めて勝ち抜き、中部ブロック予選へ。決勝で甲府商(山梨)に惜敗し、全国行きは逃した。だが、県予選での頑張りが2年後の国体初出場につながり、全国の強豪としての地位を築く起点となった。1952年春、藤枝高は現校名の「藤枝東高」となり、新たなスタートを切った。新校名が定着して迎えた53年度の県予選。新生・藤枝東は準々決勝で静岡を2-1、準決勝は浜松北、決勝は静岡工をともに3-0で倒して優勝。さらに静岡、山梨、長野3県の代表3校で争った中部ブロック予選も突破して、念願の本大会行きを決めた。
「サッカーで泣いたのは、この時だけ」

初の全国出場当時を振り返るOB会長の橋本忠広
中部ブロックの代表枠は二つで、代表校の力関係を分析するとブロック突破の可能性は高い。ならば、県を制覇すれば全国行きは間違いないところだ。
「我々は県で優勝すれば国体に行けると、死にものぐるいで県大会を頑張った。決勝終了の笛を聞いたとたん、全員抱き合って泣いた。国体の時期になると、決まってこの時のことを思い出す。汗と涙で汚れた仲間たちの顔が、今でもはっきりと浮かんでくる」
母校の創立60周年記念誌に、こう記したのは主力の一人であり、後に静岡県サッカー協会専務理事を務めた橋本忠広(静岡市駿河区在住)。
サッカー部OB会長の橋本はいまもピッチに立つ。サッカー人生は60年を優に超えるというのに「サッカーで泣いたのは、後にも先にもこの時だけ」と感慨を込めた。(敬称略)


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