【藤枝東高②】全国大会の常連に飛躍
※2011年3月〜11月に「静岡の高校サッカー 戦後の球跡」のタイトルで静岡新聞に掲載した連載を再掲しています。年齢等も掲載当時のままです。 【写説】1955年度全国選手権出場の3年生メンバー(「藤枝東高サッカー六十年のあゆみ」から)
1953年・愛媛国体は浦和に敗れる
藤枝東高は1953年(昭和28年)度の県、中部ブロック予選を勝ち抜き、初の国体出場権を獲得した。決戦の舞台は愛媛県。選手たちは国体列車に揺られて伊予路に向かった。1回戦は多々良学園(山口、現・高川学園)に3-0で快勝し、2回戦で浦和(埼玉)と顔を合わせた。この年の浦和は向かうところ敵なし、連勝記録を更新していた。藤枝東は快進撃を続ける浦和と練習試合で対戦し、1-1で引き分けていた。そんな経験もあり、選手たちは対等に戦えると踏んでいた。
オフサイドの判定なく…
互角の展開で試合は進んだ。ところが、思わぬ形で先制点を与えた。自陣ゴール前に相手のボールが迫った時、どこからか「オフサイド」の声が飛んだ。GKはこの声に反応、ボールを見送ったところ、オフサイドの判定はなく、そのままゴールイン。やらずもがなの失点でリズムを崩し、その後も2点を奪われると、一矢も報いることなく0-3で敗れ去った。
「なんで入ったのか。いまだに信じられない」。60年近くたっても、レフトインナーで活躍した橋本忠広(静岡市駿河区在住)の脳裏には、1点目の失点シーンが焼き付いている。
不本意な敗戦だったが、初の全国舞台という貴重な経験を積んだことで、藤枝東は間違いなく成長。着実に上昇階段を上り始めることになる。
「冬も全国舞台へ」
2年後の1955年度、今度は国体だけでなく、冬の選手権出場権もつかむ。国体は2年ぶり2度目の出場だった。初戦で松山工(愛媛)を1-0で下したが、2回戦で準優勝した神戸(兵庫)に抽選負けした。強豪と互角に渡り合った末の不運の敗戦だったが、その分、無念さが募った。
何としてもレベルアップを図り、冬も全国舞台へ―。そんな思いに燃え、主将の西谷喜代志(横浜市在住)を中心に選手自らが戦術を練った。西谷が取り寄せた英国の専門書を翻訳し合い、取り入れたのが3バックシステム。当時は2バック全盛時代とあって、画期的なシステムの採用だった。
選手権予選は静岡工、清水商、清水東を連破してまず県を突破。東海では国体優勝校の刈谷(愛知)に4-0で圧勝し、本大会出場を決めた。強敵の刈谷を倒してつかんだ初の選手権出場切符。藤枝東はこの年から10年連続、選手権に名乗りを上げ、全国大会常連校として地位を確固たるものにする。(敬称略)