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アットエス編集部

家康は“強い”戦国武将だったのか?実は城攻めが苦手だった!?

静岡にゆかりが深い戦国武将・徳川家康を主人公にした今年の大河ドラマの時代考証を担当している小和田哲男・静岡大名誉教授が5月15日、浜松市内で「おしえて家康! おしえて浜松!」と題して講演しました。その模様を要約し、5回にわたって紹介します。第4回目のテーマは「織田信長の死と羽柴秀吉との戦い」です。

なかなか落ちない武田の高天神城

徳川家康は武田信玄が死んだ後、織田信長の後援を得て武田勝頼と戦うことになっていきます。有名なのが長篠・設楽原の戦いです。教科書的には、長篠の戦いという名前で一般的に言われてます。確かに長篠城を巡る戦いが発端だけれども、織田鉄砲隊と武田騎馬隊の有名な戦いの図式は、長篠の少し西にある設楽原という原っぱで行われました。ですので、私は面倒くさいですけれども、長篠・設楽原の戦いと表現しています。

この戦いがあったのが天正3年(1575年)の5月21日になります。その後、高天神城の戦いが繰り広げられます。それが天正9年(1581年)3月22日です。勝頼は長篠・設楽原で負けたんだけれども意外と武田の力は遠江に残っていた。特に現在の掛川市にあった高天神城は武田の拠点になっていました。

家康はそれを天正6年(1578年)ぐらいから攻め始めるんですが、なかなか落ちない。私は、今川氏真を攻めた掛川城攻めとこの高天神城攻めで苦しんでることをもって、家康は城攻めは少し苦手としていたんじゃないかという見方をしています。

本多忠勝が自害止める

家康が高天神城を落として武田の力を三河、遠江から追い払った直後の天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反で織田信長が亡くなった本能寺の変が起きました。その時、家康自身は今の大阪府堺市にいました。一説にはこのとき、家康は京都に戻り、明智の兵と戦い、知恩院で自害すると言い出したとされています。それを止めたのが、本多忠勝です。
彼が必死になって止め、「ここは何とか逃げましょう」と説得して家康もようやくその気になりました。

岡崎に戻った家康は今の山梨県、長野県に攻め込み、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5カ国の大名になりました。その後、だんだん台頭してきた羽柴秀吉と戦うことになります。
これが小牧・長久手の戦い。天正12年(1584年)のことです。

小牧・長久手の戦いは秀吉軍が10万人を超えるが、家康は同盟者だった信長の次男・織田信雄の軍勢を合わせても1万6000〜1万7000人。横綱と小結の戦いという感じでした。家康は5倍の敵と戦うことになりましたが、なんと局地戦では勝っているんです。家康は城攻めは苦手だったけど、平地での野戦は得意だったのかなという感じもあります。

羽柴秀吉と距離置くため浜松から駿府へ

家康は結局は秀吉に頭を下げる結果になり、天下取りに協力する形になるのですが、その時に居城を浜松から駿府に移しています。これが天正14年(1586年)です。これにはいくつか理由があります。一つは秀吉と少し距離を置きたいということ。もう1つは家康が特に力を入れて支配をしようとしたのが甲斐の国だったということです。浜松よりも駿府のほうが近いので地の利があるという思いで浜松を出ていったのではないかと思います。

家康は最初は信長と主従関係に近い同盟で、かなりの部分を浜松で過ごしました。駿府に本拠を移す前の間は、秀吉との関係でかなり緊張状態が続いていました。だから、浜松城時代の家康は頭が休まることがなく、緊張状態が続いていたと言えます。

 

あわせて読みたい!「おしえて!家康 おしえて!浜松」

第1回:若き家康は、なぜ出身の岡崎から“浜松”を選んだのか
第2回:家康、生涯最大の敗北…「三方ヶ原の戦い」に新説!
第3回:家康、浜松城時代の痛恨事…愛妻と愛児を殺さざるを得なかった「築山殿事件」の真相
第4回:家康は“強い”戦国武将だったのか?実は城攻めが苦手だった!?
第5回:「家康と築山殿に恋愛結婚はありえない!」それでもドラマにNGを出さなかったワケ
<小和田哲男 静岡大名誉教授>
書籍・講演・メディア出演などを通して戦国史のおもしろさを発信。数多くの大河ドラマの時代考証や歴史番組での解説を担当。SBS学苑では「日本史探訪」などで講師を務め人気を博している。YouTubeでは「戦国・小和田チャンネル」で自身の研究などを動画で配信中。

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