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アットエス編集部

「家康と築山殿に恋愛結婚はありえない!」それでもドラマにNGを出さなかったワケ

静岡にゆかりが深い戦国武将・徳川家康を主人公にした今年の大河ドラマの時代考証を担当している小和田哲男・静岡大名誉教授が5月15日、浜松市内で「おしえて!家康 おしえて!浜松」と題して講演しました。その模様を要約し、5回にわたって紹介します。最終回はフリーアナウンサーの鬼頭里枝さんとのトークショー形式で行ったQ&A(質疑応答)コーナーをまとめました。

駿府を隠居の地とした理由は

(鬼頭)徳川家康が隠居の地として浜松ではなくて、どうして駿府城を選んだのか。どうしても浜松出身者としてなぜと思ってしまうんですが。

(小和田)確かに将軍職を息子の徳川秀忠に譲って大御所になり、自分がここに住みたいと言えばどこにでも住める立場だったわけですね。では、なぜ家康が岡崎でもなく浜松でもない駿府を選んだのか。家康が駿府を選んだ理由は書かれたものがあるんですよ。

1つの理由は、駿府は自分にとって故郷みたいなとこだったということです。本当の故郷は岡崎ですよね。ただ、8歳から19歳までは今川義元の下で人質時代を送りました。普通は人質というのは惨めで監視の目も厳しくて思い出したくない場所だとイメージしがちですが、家康はむしろ駿府での人質時代が良かったと感じていたんだと思います。今川義元や軍師である雪斎和尚からいろいろ教わったという思い出の場所だったのが1つの大きな理由です。

2つ目に駿府は冬でも暖かいという点。3つ目の理由として挙げているのは、浜松よりも駿府の方が後ろにいろいろ守るものがあったこと。富士山や箱根山、大井川、安倍川がある。守りに適した土地だっていう言い方をしています。ということは、江戸に将軍・秀忠を残してきたときに、家康はもしかしたら豊臣の大軍と戦うことになると思っていたかもしれない。その時に、浜松よりも駿府の方が守りやすいと考えたのではないかと思います。

恋愛結婚の演出に「待った」??

(鬼頭)正室の築山殿と長男の松平信康を殺したこと(築山殿事件)について、家康の心中はどうだったと考えますか。

(小和田)今年の大河ドラマで、瀬名(後の築山殿)と松平元康(後の家康)が恋愛結婚だったというシナリオを読んだ時に、私は本当は待ったをかけようと思ったんですよ。

当時、松平家ぐらいの家だと、大体親が決めた結婚相手と結婚するのが普通。その時点で元康のお父さんの松平広忠は亡くなってますから、私の中では、父親代わりの今川義元の斡旋で、政略結婚的に結婚したと思っていました。恋愛結婚だとは思っていなかったんで、時代考証の立場で「駄目だ」と言おうとしたんです。

だけど、恋愛もありかなと思うようになりました。愛していた、ラブラブだったということであれば、なぜ最愛の妻を殺さざるを得なかったのかということになる。自分の長男を殺すなんていうことも普通では考えられない。でもね織田信長との関係を維持するためには仕方なかった選択かなと私は思っているんですよ。本当は殺したくなかったんだと思います。

(鬼頭)築山殿は(武田と内通していたというのは)冤罪だったんでしょうか。裏切ったとは思いにくいのですが。

(小和田)従来はいわゆる築山殿の悪女説が主流でしたが、私は彼女は悪女だとは思っていません。徳川家の将来のためにいろいろ考えたところ、結局は信長の思いとは相容れなかった。それが家康にとってみれば苦渋の選択になったのだと思います。

家康は子育てに失敗した

(鬼頭)家臣団と信康の不仲説というのもあります。歴史上、いろんな見解があると思いますが、先生はどの説だと思いますか。

(小和田)1番大きいのは子育ての失敗だと思います。12歳ぐらいで信康を浜松城主にしてしまった。本来ならば、お父さんである家康の下で16歳ごろまで今で言うリーダー学を仕込まなければいけないときに、自立させたので、少しわがままに育ってしまった。それが家康の元々からの家臣である酒井忠次たちとの不和につながった。

家康としては自分の重臣たちを取るか、自分の息子を取るかということで、世話になった重臣たちを切り捨てるわけにはいかないだろうということで苦渋の選択の末、信康を自害に追い込んだと考えています。

(鬼頭)次の質問です。現在の浜松城の石垣ですが、実は家康の次の城主である堀尾氏時代のものと聞いたことがあります。家康時代には全く石垣がない土のお城だったということになるのでしょうか。

(小和田)家康時代の浜松城には石垣がなかったというのがこれまでの通説でした。ところが最近、家康時代にもある程度石垣があったという新説が出された。なぜかというと、家康と同じ時代の先を走っていた信長が小牧山城、岐阜城、そして安土城と、立派な石垣を積んでいた。ですから、浜松城時代の家康にもその技術が伝わってたはずなので、石垣は積んでいたという説がいま出ています。ただ、家康が浜松城主だった頃の浜松城の実際の姿についてはまだ謎です。

 

あわせて読みたい!「おしえて!家康 おしえて!浜松」

第1回:若き家康は、なぜ出身の岡崎から“浜松”を選んだのか
第2回:家康、生涯最大の敗北…「三方ヶ原の戦い」に新説!
第3回:家康、浜松城時代の痛恨事…愛妻と愛児を殺さざるを得なかった「築山殿事件」の真相
第4回:家康は“強い”戦国武将だったのか?実は城攻めが苦手だった!?
第5回:「家康と築山殿に恋愛結婚はありえない!」それでもドラマにNGを出さなかったワケ 
<小和田哲男 静岡大名誉教授>
書籍・講演・メディア出演などを通して戦国史のおもしろさを発信。数多くの大河ドラマの時代考証や歴史番組での解説を担当。SBS学苑では「日本史探訪」などで講師を務め人気を博している。YouTubeでは「戦国・小和田チャンネル」で自身の研究などを動画で配信中。

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