海道一の弓取り 今川義元

今川家の菩提寺、臨済寺に残る太原雪斎の木像(小泉さん提供)
雪斎の出自
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臨済寺の今川義元の木像(小泉さん提供)※同寺は修行寺のため通常は拝観不可
雪斎の名は通称で本名を「太原崇孚」という。雪斎は9歳で出家する。戦国時代、家督争いを防ぐために長男以外は寺に入門するのが一般的だった。当時の寺は学問、文化の中心地であり、僧侶は一流の文化人だった。最初は善得寺(富士市)に入り、優秀だった雪斎は周囲の勧めで京都五山のひとつ、建仁寺で修行をする。雪斎は仏教の経典だけでなく、和歌や連歌などの文学、さらに兵法書まで熟読し最高レベルの学問を身に付けた。
今川義元の養育係になる
今川義元は駿河国守護を務める今川家の五男として1519年に生まれた。幼名を芳菊丸という。今川家は室町幕府を開いた足利家の血を引く名門。後に足利義晴から「義」の字を授けられ「義元」と名乗った。義元は5歳の時に寺に預けられる。義元の父、氏親は雪斎の名声を聞き、雪斎に義元の養育係を頼む。当時雪斎は建仁寺で修行に励んでいたため氏親の要請を2度断り、3度目で承諾したという。雪斎は駿河に帰郷し義元と共に善得寺(富士市)に入った。その時雪斎は27歳。親子ほどの年齢差だった。その後二人は32年間を共に過ごし、二人三脚で今川家を繁栄させる。
小泉さんは二人の関係を「義元にとって雪斎は師匠であり、軍師であり、参謀でもあった。幼少期からいつも傍にいなければならない存在。深くて強い絆があったのだろう」と話す。雪斎は義元を京都の建仁寺、妙心寺に連れて行き修行をした。義元は京都での修行時代に京文化にふれ、公家や有力者たちと交流し、人脈を広げたと言われる。
今川家当主争い 花倉の乱で勝利
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臨済寺には雪斎が戦で着たとされる陣中袈裟が保管されている。(小泉さん提供)
兄の死亡により後継者争いの「花倉の乱」が起きる。今川家は異母兄・玄広恵探を押す一派と義元を押す一派が激しく対立。雪斎は合戦の前に外交で有利な状況に持って行き勝利を導く。雪斎は義元が当主にふさわしいことを足利将軍家に承認してもらい、多くの家臣を味方につけたのだ。
家督を継いだ義元は兄・氏輝を弔うために臨済寺(静岡市葵区)を建て、雪斎を住職として招いた。
安祥城の戦い 竹千代奪還に成功
雪斎は戦の戦略を考える軍師として活躍した。雪斎の巧みな軍略が分かるのが松平家の長男・竹千代(後の徳川家康)と織田信秀の長男・信広を人質交換に成功したことだ。竹千代は人質として駿河に向かう途中に松平家の家臣の裏切りで尾張の織田家に送られ、2年間織田家で人質生活を送る。雪斎は竹千代を取り戻すために織田信秀の長男・信広を生け捕りする作戦を立てた。小泉さんは「生け捕りを成功させる任務は、相当難しかったはず」と推測する。今川家出陣の情報が出回ってしまえば逃げられる可能性、自害の可能性もあったからだ。
1549年に雪斎は一軍を率いて織田家の安祥城に攻め込む。雪斎は信広の生け捕りに成功し、織田信秀に竹千代との人質交換を交渉。竹千代奪還作戦を成功させた。
奇跡の同盟 甲相駿三国同盟

雪斎は清見寺(静岡市清水区興津)の住職も務め荒廃した寺を再興した。小泉さんは小学校教員として41年間勤務し、退職後も出前講座で静岡市の歴史を伝えている
雪斎は桶狭間の戦いの5年前に61歳で亡くなる。雪斎が生きていたら戦いの結果はどうなっていたか。小泉さんは「私たちの生活と地続きである郷土の歴史を先人への敬意を込めて学ぶことで、見方や考え方を広げてほしい」と最後に語った。
※12月22日発行の紙面を編集して掲載しています。
書籍紹介

『静岡ふるさとヒストリー今につながる歴史の謎』
小泉さんが2023年4月~2024年3月にエフエムしみずで担当していた番組「ふるさとヒストリー」を書籍化。お求めは近くの書店まで。
著者:小泉達生
出版社:静岡新聞社
価格:1,760円(税込)

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