80年前の3月、東京大空襲で家族6人を亡くし、静岡県沼津市で戦災孤児となった女性がいます。海老名香葉子さん。戦争をなくそうと活動し91歳になった今も平和を願い続けています。
3月9日に開かれた「時忘れじの集い」。「東京大空襲」の犠牲者を悼む供養式です。初代林家三平の妻、海老名香葉子さん(91)。20年前に私財を投じて慰霊碑を建て、毎年3月9日に「東京大空襲」の慰霊行事を続けています。
80年前の3月9日深夜、アメリカ軍の爆撃機B29は東京に1600トンもの焼夷弾を落としました。下町を中心に焼け野原となり約10万人が犠牲になりました。
<海老名香葉子さんの長男 九代目林家正蔵>
「ずっと平和を願っているのに、海の向こうでは戦争があります。きっと母と同じように家族を失ったり、友達を失ってる子どもたちがたくさんいることです」
香葉子さんは大空襲の前年、激しくなる戦火を逃れて親戚が住む沼津市に疎開していました。一人で疎開している間、香葉子さんを支えたのは沼津に何通も届いた家族からのはがきや手紙でした。
<海老名香葉子さんの次男 二代目林家三平>
「カヨ子チャン元気デスカ。オ父サンモ無事デス。時々夢デ見マス」
「(はがきを)もう大切にしてしまっていますね。もうずっとしまっていて、もう肌身離さずですね。こう読むとき、こうやって一礼してから読みます。必ず」
<海老名香葉子さん(91)>
Q.お母さんからの手紙は楽しみでしたか?
「楽しみで、父も、兄も、みんな。あれだけ手紙を寄こしたんですから。1日か2日にいっぺんは来ました」
沼津の香葉子さんを気遣い、はがきを送った両親や祖母、兄弟の家族6人は東京大空襲で亡くなりました。
「東京が燃えているー」
その夜、香葉子さんは近くの香貫山にかけあがるとぼーっと赤く光る東の空に手を合わせて拝みました。
「どうかみんな無事でいますようにー」
祈りは、届きませんでした。
家族を引き裂く戦争の惨禍を忘れてはいけない。香葉子さんは、上野公園の中に「平和母子像」を建て、平和の集いを開くようになりました。
2025年、92歳になる香葉子さん。以前のように東京大空襲を振り返る話をすることも難しくなり伝えたい思いを手紙にしました。
<海老名香葉子さんの手紙(代読)>
「戦争で親を亡くした子どもたちは悲惨です。もう決してあの時の私のような子どもを作らないでほしいと思います。世界中のみんなが仲良く暮らせるためにも、小さな声でもあげていかなければいけません」
戦後80年を迎え、太平洋戦争を体験した人の言葉を直接聞く機会は減り、時間も限られています。戦争経験者の伝えたい思いを、改めて、私たちがどう受け取るかが問われています。