
シリーズでお伝えしている「戦後80年つなぐ、つながる」、最終回の今回は、浜松市出身で日本の戦後美術を代表する92歳の画家の特集です。自らの戦争経験を描くようになったのは、3年前のこと。人類の“負の遺産”を絵画として記録しようと、創作活動を続けています。
東京国立近代美術館が所蔵する「空襲1945」。巨大な雲のように描かれたB29。爆弾の一種・焼夷弾が三方原台地を襲う様子を表現しています。
東京都現代美術館が所蔵する「艦砲射撃1945」。大きな波をも越えて飛んでくる砲弾の脅威が感じられます。
描いたのは、浜松市出身で東京在住の画家・中村宏さんです。
<画家 中村宏さん>
「長い間生きてきたが、その中で戦争は未だ重要な何年か。どうして忘れられないのかね」
基地や軍需工場が集中し戦時中、幾度となく標的になった浜松市。「浜松大空襲」(1945年6月18日)では、6万5000発もの焼夷弾が投下され、1157人が亡くなりました。現在の浜松学芸中学・高校にあたる女学校の創設者の家に生まれた中村さん。終戦時は12歳で、空襲からの避難を繰り返す日々を過ごしました。
<中村さん>
「空襲と聞いただけですごい恐怖。死ぬんじゃないかと思うくらい。偶然にしか生きていないあの時代。穴(防空壕)を掘っていたのは気休め。そんなんで助かったって聞いたことがない」
その経験を、当時の感情とともに形にした絵があります。
<LIVEしずおか 滝澤悠希キャスター>
「2024年制作された『防空壕』を題材にした作品です。3枚で1つの作品になっていまして、左上には爆撃機そして、血のようにも炎のようにも見える赤い線。全体的に暗いトーンで、おどろおどろしい雰囲気になっています」
中央に大きく描いたのは、中村さん自身の手。空襲の際、身を守るため手で顔を覆った記憶の象徴です。
<中村さん>
「ただ怖いだけ。毎朝毎朝。恐怖の中にどろどろになって浸っている。その恐怖のために寝つきさえできないけれど、いつの間にか恐怖でくたびれて寝てしまう、子どもは」
作品になった防空壕は、現在も残っていました。
<浜松学芸中学・高校 大場裕幸教諭>
「こちらが防空壕です」
<滝澤キャスター>
「これが防空壕の跡ですか」
<大場教諭>
「竹の根っこで崩れなかったのかと思う」
▼高さは約2メートル、▼奥行き約3メートルの防空壕。7年前、中学生らが散策していた際に発見したもので、学校では、生徒の見学の機会を設け、平和教育の一環として活用しています。
<大場教諭>
「ものが残っている、さらに絵として残してくれたことで思いが乗って見ることができるのは大切なこと。絵の裏にあるものを生徒に読み取ってもらえれば、戦争に対する学びの深さにつながってくると思う」
社会的な事件を取材し描く「ルポルタージュ絵画」の分野で日本の戦後美術を代表する一人として活躍し、静岡県内でも作品展を開催してきた中村さん。しかし、「軍隊経験のない自分は真の苦労を知らない」とこれまで、自らの戦争経験を絵画にはしてきませんでした。
<中村さん>
「本当に経験した人たちに見せればこんなもんじゃないよと言われる可能性大だが、一応(絵として)記録にだけはとってとっておこうかなと」
戦時中、戦いを賛美するものも多かった戦争画。中村さんは、絵として残す意味を逆の目線で解釈します。
<中村さん>
「戦争をモチーフにして絵の中におさめることはむしろやっていいんじゃないかと思う。やるべきではないことをやったやつがいるからこれを記録に残しておくぞ、よく見ろというような」