
8月15日で終戦80年を迎える太平洋戦争では、数多くのオリンピアンが命を落としました。そのひとりが浜松生まれのトップスイマー。「日本クロールの父」と呼ばれた人物です。
120年以上の歴史を誇る静岡県立浜松北高校水泳部。多くのオリンピアンを輩出しています。そのひとりが内田正練。いまから105年前、日本人で初めて競泳選手としてオリンピック出場を果たしました。
<浜松北高校水泳部員>
Q.内田正練の名前を聞いたことはあるか
「聞いたことがない」
Q.学校の先輩にあたる
「はじめて聞いた」
「誇りに思う。日本水泳のいまの基盤をつくった」
内田は故郷・雄踏にある墓に眠ります。
<孫・河野みどりさん(68)>
「正練は戦死していて、遺骨の返還はありませんでした」
内田は南方・ニューギニアで戦死しました。
<河野さん>
「もしも、あの戦争がなかったら、祖父にはその後、また別のステージの人生が確実にあったというふうに思う」
浜名湖近くの雄踏で生まれ育った内田。自慢の日本泳法で、流れの速い湖を悠々と泳いでいたといいます。
<浜名湾游泳協会 藤原靖久名誉会長(80)>
「片抜手一重伸、一掻きやって足は煽り足。50メートルを約29秒で泳いだっていうからずば抜けて速かった。日本泳法では、日本では敵なしで、アジア大会へ行っても負けなかった」
<河野さん>
「これがオリンピックの参加章。選手証明」
Q.当時のものか?
「これだけが残っている。ジャポン、ヤーパンですかね」
1920年、ベルギーで行われたアントワープオリンピック。日本泳法に絶対の自信を持って臨んだ内田。結果は、惨敗でした。
<藤原名誉会長>
「この(日本)泳法ではやっぱりダメなんだ。勝負にならないことを強く感じたんじゃないか」
「世界と戦うには、クロールが必要だ」。内田は帰国後、こう訴えてクロールを広める活動にのめり込みます。それから12年、ロサンゼルスオリンピックでは、内田の後輩・宮崎康二が金メダルに輝くなど、自由形で6つのメダルを獲得しました。日本は世界から一目を置かれる競泳王国となったのです。
<藤原名誉会長>
「内田さんは後に道を作った人。もし(内田が)日本泳法に固執していたら、今の競泳の発展はなかった」
内田は現役引退後、新たな道を歩みます。大学時代に学んだ農学を生かそうと海外へ移住。戦時中、ニューギニアでは、農地の開墾や食料調達に汗を流しました。
<内田の娘・立野恵美子さん(取材当時96、2023年死去)>
「ニューギニアは遠いところですから、帰ってこれないし、手紙も1通も来なかった」
戦況が悪化する中、現地ではマラリアがまん延、さらに食料の補給も断たれます。内田が取った行動は、若い人たちに食べ物を優先することでした。栄養失調でバタバタと倒れる中で、内田はなけなしの食料を固辞し続け、最期は餓死しました。終戦の年、1945年のことでした。
<立野さん>
「自分が死んでも若い人が残れば、国はまだ残っていくんじゃないかという気持ちがあったと思う」
内田の死から80年。生前の祖父を知らない孫のみどりさんは2025年夏、顕彰碑を建てました。
<河野さん>
「わたし自身が戦後生まれであることを考えても、語り部がいなくなっていくというこの時の流れをここでしっかり受け止めて、私たちがなすべきことは語り継ぐことしかないんじゃないかと今考えている」
日本近代泳法のパイオニアといえる内田さんですが、大河ドラマにもなった田畑政治さんやフジヤマのトビウオ古橋広之進さんなどに比べるとふるさとの浜松でも知る人ぞ知る存在となっています。
内田さんが戦死してから80年。いまこそ、その功績、そして悲劇と向き合う時が来ているのだと思います。