
2025年で終戦から80年。シリーズでお伝えする「戦後80年つなぐ、つながる」です。旧ソ連軍によって57万人以上の日本人が連行され、強制労働を強いられたシベリア抑留。「戦争は後世の物笑いだ」。抑留者となった100歳の男性が次の世代へ記憶をつなごうとしています。
<加藤源一さん>
「どうぞ大当たりしますように」
<客>
「ありがとうございます。会長が選んでくれたら当たるよ」
静岡県藤枝市の宝くじ店を経営する加藤源一さん100歳。73歳でこの店をオープンし「大当たりが出る店」として人気を呼んでいます。
<加藤源一さん>
「内地へ帰るということで、汽車に乗ったんですけど、その汽車も全くの貨物車でありまして」
加藤さんは100歳にして、自身の戦争体験を語る活動をしています。
静岡県掛川市に生まれ、現在の平喜酒造に入店した加藤さんは17歳から満州の支店で働き2年後の19歳で、召集令状が届きました。
<加藤さん>
「もうこれに勝るものはないって言って教育を受けたものですから、本当に嬉しかったです。いよいよ俺もお国のために尽くすことができるかということで」
武器を持たず、爆弾を抱えて敵の戦車に飛び込む訓練の毎日でした。
<加藤さん>
Q.怖さとかはなかった?
「もう全くないですね。命なんて考えないですね。とにかく敵の戦車をいかに撃破するかと、それだけでした」
1945年、日本は終戦を迎えました。しかし、加藤さんが満州から行き着いた先は日本ではなく、シベリアでした。
<加藤さん>
「みんな栄養失調でふらふらしている。そういうところでして、一夜明けたらすぐ集合して、今から山奥へ伐採に行くと。もう虫けらのように扱われて大変でした」
終戦と共に始まった「シベリア抑留」。57万人の日本兵らが、シベリアの極寒の中、旧ソ連軍によって強制労働を強いられ、約6万人が命を落としました。
<加藤さん>
「遺体が出るんですけど、向こうでは全部剥がしちゃう。シャツから何から、全部真っ裸にして、マネキンのように外へ放り出す」
2年間の抑留生活を支えたのは、日本が終戦を迎えた日に中隊長からもらった飯ごうでした。
<加藤さん>
「この飯ごうをとにかく内地まで持って帰れということは、生きて内地へ帰れということだ」
『何があっても生き抜け』
その言葉は、今も脳裏に焼き付いています。しかし、加藤さんはこれまで自身の経験を積極的に語ってきたわけではありませんでした。「語り部」として活動することを決意したきっかけはある本との出会いでした。
抑留者だった父親の体験をつづった窪田由佳子さんの小説「シベリアのバイオリン」。希望を捨てず、馬の毛などの廃材を利用してシベリアで大好きなバイオリンをつくり、やがて楽団が生まれたという実話です。
<加藤さん>
「静岡の人がつくったなんて思わなかったですよ。本当に誇りだなと思って。シベリアの話は一切せずにおりましたが、窪田さんの熱意に駆られて、私も窪田さんと一緒にシベリアの話をしに行ってみました」
<窪田由佳子さん>
「加藤さん、どこに座っていただきましょうか。ありがとうございます」
窪田由佳子さん。抑留者だった父親は59歳で亡くなりましたが生きていれば、加藤さんと同じ100歳です。この日、2人はシベリア抑留について語る講演会を開きました。
<窪田さん>
「特にやっぱり食べ物が足りないのが1番辛いですよね」
<加藤さん>
「配給されるのがやっと来たなと思うと、黒パンのこのくらいのと、あとスープに、大豆が2つ3つ入っているくらい。耐えに耐えてふるさとに帰りたい帰りたいと言って、望みを果たさなく、シベリアの地で亡くなられていかれたことは本当に気の毒でたまりませんでした」
<窪田さん>
「収容所での暮らしを想像するときに加藤さんの辛そうなお顔を見ると、父もきっとこんな思いをしていたんだろうなと感じます」
<加藤さん>
「人間同士が殺し合いをしたなんていうことは後世の物笑いになると思います。戦争は…悲劇で家族とか恋人が一回にして灰になってしまう。そういう怖いものであるということを知っていただきたいと思っています」
命の重みを忘れさせた戦争とそのあとのシベリア抑留。教科書に載らないその惨状を加藤さんは語り続けます。