高校生アスリートの海外挑戦にエール!社会人野球ヤマハの秋利雄佑(常葉菊川高出身)が米留学時代に学んだ“生きる術”
高校野球界で注目された佐々木麟太郎内野手(花巻東高出身)が米国のスタンフォード大に留学し、静岡県内でも陸上中距離の沢田結弥選手(浜松市立高出身)が米国のルイジアナ州立大に進むなど、アスリートが海外の進学先を選ぶケースが増えています。
かつて米国の大学に進学し、全米大学体育協会(NCAA)1部でプレーした経験があり、現在、社会人野球のヤマハ(浜松市)で活躍する秋利雄佑内野手(32)=常葉菊川(現・常葉大菊川)高出身=は「今、高校時代に戻ったら、もう一度アメリカの大学に行く」と言うほど実りある日々だったそうです。当時を振り返り、海外を志すアスリートにエールを送ります。
(聞き手・編集局ニュースセンター 結城啓子)
―高校時代から留学志望だったわけではないんですね。
「そうです。一度は日本の大学野球に進んだものの合わなかったので、後先を考えずに中退しました。その後、両親がアメリカ留学(スポーツ留学)をあっせんしている会社に問い合わせをしてくれて、そういう道もあるんだと知りました。アメリカの大学で野球を続ける道を探して、10月ごろに5、6校のトライアウトを受けてスカジットバレー短期大学に進学を決めました」
―とにかく飛び込んだ。
「最初は本当に行っただけです。システムとか全くわからないまま、野球が続けられる環境を探して。まず英語の学校で9カ月勉強して、それが短大の単位に含まれるんですが、その後1年余りで短大を卒業しました。短大で野球をやりながら、(同僚選手から)4年制大学のディビジョン1(1部)に行くのがすごいことなんだと、それがアメリカでは主流なんだと聞きました。短大からプロに行く選手もいれば、奨学金をもらって4年生大学に行くのもステータスのようなところがあり、そういう仕組みなんだなと知りました」
―短大に通いながら、目標を定めていったんですね。
「アメリカでプロを目指しました。短大卒業時に(プロに)行けず、4年制大学からオファーが来ていたのでそちらに編入しました。一般の学生には関係ないんですが、アメリカにはNCAA(全米大学体育協会 )という組織があり、アスリートはそこが定めた規約を守らないとプレーができないんです。単位が足りていなかったらプレーができない。ディビジョン1でプレーするには短大の卒業が必須でした」
―4年制大学からオファーを受けたんですね。
「短大の2年間で野球の成績を残しました。所属していたリーグ(ノース・ウエスト・アスレチック・カンファレンス=NWAC)でベストナイン、ゴールドグラブも2年連続で取りました。アメリカでは欲しい選手に大学、施設までの飛行機チケット、宿泊代を用意して、現地に呼んでくれるんです。オファーの時に、監督から奨学金についても提示されました。カリフォルニアは気候も良くて気に入りましたし、奨学金も91パーセントでした」
「とにかく英語がしんどかった」
―カリフォルニア州立大ノースリッジ校に編入し、3年生からスタートしました。「(短大卒業後)英語はある程度勝負できる、しゃべれるし理解できる、授業もいけるなという感じでいきました。一般の会話で困ることがなかったので。ところが4年制の授業に行った瞬間にヤバいと思いました。レベルが違う。野球なんて好きでやっていますけど、とにかく英語がしんどかったです」
―高校時代は英語が得意だったんですか?
「高校は特進クラスだったんです。中学生のころ、塾には行ってました。でも中学の貯金なんて高校で使い果たしましたし、勉強うんぬんというよりは(英語での)コミュニケーションが取れなかった。高校野球やっていたら、英語での会話なんて聞くことないじゃないですか」
―短大、4年制大学での生活は寮ですか?
「短大の時は寮でした。一般の生徒も一緒に4人で住んでいました。トイレ、キッチンは共同で部屋が4つ設けられていて。留学生が多く、英語が苦手な留学生もいました。4年制大学の時は野球部でアパートを借りて住んでいました。留学生は全くいなかった。野球部員だけ。大学には日本人がたくさんいたらしいんですが、野球部のコミュニティーにいたので、日本人には全く会わなかったです。だから会話は英語だけ。そこでびっくりするくらい英語が伸びました」
―どうやって伸ばしたんですか?
「伸ばしたというか、無意識の感じで英語が入ってきたんです。第二言語同士で英語をしゃべるより“ホンマ”を聞いた方がいいと思う。うまくなるスピードが違う。短大の時もその環境を求めていたんですが、留学生や日本人と会う機会が多く、日本語もしゃべっていた。その中でも、野球部の集まりには積極的に参加していました。何言っているかわからないけど会には出向いて、何言っているかわからないけれど何とか一緒にいる、みたいな場所を選んでいたんですが、4年制大学では求めにいかなくても日常がそうでした。その環境が当たり前で、約2年半で英語力は一気に伸びました」
「しんどかった。でも戻れるなら…」
―さまざまな苦労をどう乗り越えたんですか。「奨学金をフルでもらっても、結果が出ずに“クビ”になった選手もいました。大学には残れるけど野球部には残れない。野球をやりたいから、他の大学に編入するという選手もたくさんいます。自分は(卒業するために)先生の部屋に通いまくりました。
『何だこいつ』と思われていたと思いますけど。コミュニケーションを取っていました。例えば赤点を80点まで上げてもらえるとかじゃなくて、迷った時に1個上をつけてもらえるようにしてきたんです。救えないところまでは下がらないように頑張って、(先生が)迷ったらCをBにしてくれるんじゃないかと思って通いました。ただ、それができない先生もたくさんいるんですよ。受講生が200人いるような講義は(コミュニケーション取っても)無理なので、頑張って授業をパスするしかない。30人くらいの講義でやってましたね」
-大変だったんですね。
「しんどかったけれど、ものすごい充実していました。もう1回、高校時代に戻れるなら、絶対にアメリカに行きたいって言います。そのくらい、アメリカの大学はすごかった。ここまで学生にお金を掛けるのか、というすごい先行投資です。プロのように扱われました。洗濯なんてしたことがない。練習や試合が終わって、服を脱いで置いておいたら翌日きれいになっている。
整備もグラウンドキーパーがいます。週3回、朝5時15分からウエート・トレーニングをやっていましたが、起きて行くとヘッドコーチに6人くらいインターンがついて全部サポートしてくれる。重りなども全部セッティングしてくれて、サポートしてくれて、僕らは追い込むだけ。すごい恵まれた環境でした。
頑張れば頑張るだけ評価してもらえる。自校の球場で試合を開催し、人を呼ぶ。ホーム&アウェーなんですが、ハワイの球場なんてすごかったです。大学生の試合で8000~9000人くらいの球場が満杯になるんです」
―カリフォルニア州立大ノースリッジ校の同僚で大リーガーになった選手はいますか?
「ドラフトに掛かる選手はたくさんいました。ミネソタ・ツインズのジョー・ライアン投手は同じ野球部でした。よくハンバーガーを作ってくれました。おいしかったです」
恩師・森下監督との思い出
―野球を続ける環境を求めて帰国したんですね。「(常葉菊川高時代の恩師で今年1月に急逝した)森下知幸先生から三菱重工名古屋のセレクションを紹介してもらい、ご縁があって入社しました。2年間は日本のプロを目指しましたが、(ドラフトに)掛からなかったので、社会人でしっかりやろうと決めました。(三菱重工名古屋の再編、統合を受けてヤマハ入りし)本当にありがたいご縁です」
―森下監督との思い出は。
「卒業後も毎年、あいさつに行っていました。年末にいつもスーツで訪ねていたんですが、今年はユニフォームで行ったんです。なぜか分からないですが『森下先生のノックを受けるぞ』って。何年ぶりかな。森下先生のノックを受けました。そうしたら、1月に亡くなったと聞いて。あの人がいなかったら今の僕はないです。この年になっても叱ってもらえる存在はすごくありがたかった。がんばらなあかん、満足したらあかんと」
-高校時代の経験でアメリカで生かされたこと、日本とアメリカの野球に違いは?
「根気良くやることは何事にも生きました。日本の野球とアメリカの野球の違いは意外とないです。みんなが思っているほど。規則はしっかりしているし遅刻などもってのほか。野球についても、全力疾走しなかったら怒られる」
増える高校生の海外挑戦「人生は1回」
―海外での進学を目指す人が増えていることをどう思う?「人生1回なので、全うしてほしい。頑張れば頑張るだけ、いろんなことを評価してくれるのがアメリカ。いい成績を出すと奨学金も勝ち取ることができる、いい選手だと認めてくれる。頑張らないとお金が掛かるし普通の生活になるだけ」
―大変で諦めかけたこともありましたか?
「卒業できないと思ったことが何回もありました。勉強、野球の両立に配分なんてないです。どっちも100、100です。突っ走りましたね。睡眠時間は覚えてないです。がむしゃらでした。
2年という猶予で結果を残し、卒業しなきゃいけなかった。初めて日常会話ができない状況に放り込まれて。英語がいつしゃべれるかというターニングポイント、光が見えないんです。小さい子が自転車に乗ってる感覚かな。いつ乗れるかわからないけれど必死でこぐみたいな。
いつ良くなるかわからない状況で頑張って英語を勉強した。しなきゃいけない状況だったからしたわけですけれど。野球も根気良くやっていれば、絶対できるようになるんだと学んだかもしれない」
―野球をヤマハで全うし、その後の目標はありますか。
「今はできる限り野球を頑張りますが、(引退後は)会社に入って海外赴任がしたいんです。社業の目標が見つかったので、そこに向かって頑張っていこうかなと思います」
―進路選択において得た教訓、高校生へのアドバイスは?
「自分は18歳にして1回大学をやめました。やめてよかったと思っています。でもどこかで踏ん張らないといけない時があるんです。自分はもう親に迷惑はかけられないから踏ん張りました。アメリカで『もうやめられへん』と追い詰められました。どこかで頑張らないといけない時がくる。そこで頑張ることができたらいいかなと思います」
あきとし・ゆうすけ 1992年7月31日生まれ、32歳。大阪府豊中市出身。浜松市在住。常葉菊川(現・常葉大菊川)高出身。米国・スカジットバレー短大を経てカリフォルニア州立大ノースリッジ校を卒業。社会人野球の三菱重工名古屋入り。2019年、20年の都市対抗野球大会に、ヤマハの補強選手として2年連続で出場。三菱重工名古屋の再編、統合を受けてヤマハに入社。強打と確実性を兼備する打者としてチームに欠かせない存在となっている。
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