
【静岡の高校サッカー戦後史Vol.4】浜松西高「5年計画、100連敗」からのスタート
【浜松西高㊤】“二郎先生”2人が息吹

創成期のころ、浜松二中時代の面々(浜松西高サッカー部創部50周年記念誌から)
浜松一高(現・浜松北高)が3位と健闘した福岡国体から2年後、1950年(昭和25年)の愛知国体に浜松西高が駒を進めた。県勢にとって2度目の全国舞台。射止めたのは再び西部勢だった。
浜松西高サッカー部が産声を上げたのは、旧制浜松二中時代。終戦から半年もたたない1946年1月のことだった。
46年当時、県内の旧制中学校でサッカー部が活動していたのは静岡中(現・静岡高)志太中(現・藤枝東高)見付中(現・磐田南高)、それに浜松一高の前身である浜松一中の4校にすぎなかった。
5校目に名を刻んだ新生・浜西サッカー部は学制改革を挟みながら急成長、創部わずか5年で全国への代表切符を手中にしたのである。
二人三脚の指導スタート
急成長の原動力は二人の“二郎先生”にほかならない。一人は山本二郎であり、もう一人は児玉二郎。ともに浜松一高の前身、旧制浜松一中の卒業生だった。終戦4カ月後の45年12月、旧制浜松二中に一人の教師が赴任した。山本二郎。担当は社会科だが、浜松一中当時、サッカー部員だった経験から、戦後の学校教育に新たな息吹を吹き込むのはサッカーだ-と部創設に立ち上がった。
山本は持ち前の行動力を発揮、素早く部員を集めて赴任1カ月後には早くもサッカー部を始動させた。
47年6月、もう一人の二郎先生である児玉が浜松二中に赴任した。やはり社会科の担当だったが、師範学校の付属小時代にサッカー少年だったことを知る山本から声が掛かって、サッカー部のコーチに就任。こうして二郎コンビによる二人三脚指導がスタートした。
「5年目までは負け続けてもいいんだ」
部員に「土佐犬」のあだ名で呼ばれた山本は熱血指導に徹し、コーチ役の児玉でさえその標的になり「生徒たちと一緒によく怒られたものだった」と苦笑する。「5年計画、100連敗」。これはチーム始動にあたり、山本が掲げた目標である。「5年目に最高のチームをつくる。それまでは負け続けてもいいんだ」とは山本の言葉であり、「サッカー王国静岡・その六十年の歩み」(静岡新聞掲載)の中で紹介されている。
ゼロからのスタートだから失うものはない。負けながら経験を積み、成長すればそれでいい-。「5年計画、100連敗」には、山本のそんな強い意志が込められていた。(敬称略)


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