
鬼頭:反町さんのプロフィールを紹介します。1964年埼玉県浦和市生まれの60歳。
ヒデ:浦和だったんですね。清水の男だと思っていました。
鬼頭:清水東高校時代はインターハイで全国優勝、選手権では準優勝。
ヒデ:そこは僕と経歴一緒ですよね(笑)
鬼頭:慶応大学卒業後、1987年全日空に総合職で入社し、サッカー部に。1993年にJリーグが発足すると、プロ契約せずに全日空の社員として横浜フリューゲルスで活躍しました。その後ベルマーレ平塚に移籍し、1997年の引退後はJリーグのクラブやU-23日本代表の監督、そして日本サッカー協会技術委員長などを歴任しました。

ヒデ:浦和時代からサッカーをしていたんですか?
反町:いや、まったく。小学2年の時に父親の仕事の関係で清水に引っ越してきました。
ヒデ:お父様が清水に行かなければ…。
反町:サッカーをやってなかったと思いますね。清水の有度第二小学校だったんですが、クラスの男子の半分はみんなサッカーチームに入るという流れで、入っちゃいましたね。とにかく毎日必ず放課後にボールを蹴ってました。1日も休まずにずっと。
ヒデ:そこから清水FCに?
反町:当時は「オール清水」。4年生から選ばれていました。
選手権の後、自宅が大変なことに
ヒデ:清水東高時代は2つ下に長谷川健太さんら「三羽烏」もいました。どんな3年間だったんですか。反町:とにかくサッカーばっかりやってましたね。高校選手権に出た時には、次の日から電話帳で住所を知った人たちがみんな押し寄せてきちゃって。それはそれは大変でした。

1980年度の愛媛総体で優勝。後列右から2人目が反町さん
ヒデ:そりゃ女子高生は行っちゃうわ。
鬼頭:当時の高校サッカー人気ってすごかったんですか。
反町:そうですね。我々の時代はインターハイと高校選手権しかない時代ですから。特にテレビは高校選手権しかなかったですから。
キャプテン翼「反町一樹」のモデルに
ヒデ:漫画キャプテン翼に出てくる「反町一樹(かずき)」。このモデルがソリさんっていうのは知ってましたか?高橋陽一先生がおっしゃってました。反町:いろんなところから話は聞いてました。うれしいですね(笑)。
鬼頭:そして慶応大学に。
反町:1年浪人して入りました。
ヒデ:むちゃくちゃ勉強しました?

反町:むちゃくちゃしました。浪人の1年間はボールを蹴りませんでした。だから大学に合格して、最初はテニスサークルに(笑)
ヒデ:何やってんだよ。
反町:そしたら監督さんがアパートにドンドンって来て、「お前何やってんだ。どういうことだ」って。
ヒデ:そりゃそうなりますよ。
反町:それでグラウンドに連れて行かれて、やる羽目になりました。大学まではサッカーをやってもいいかなと思っていましたが、それ以降は父親もサラリーマンでしたから、地道にしっかり仕事しようかなと思っていました。
清水エスパルスからオファーはあった?
ヒデ:Jリーグが発足した時、なぜプロ契約しなかったんですか。反町:93年はもう年齢が29だったんですよね。全日空に入って7年仕事をして、非常にいい会社だったってこともあったし、プロとしてどれぐらいまでできるのかなっていうのが不透明だったので、ちょっと難しいかなと。
Jリーグが始まってみたらすごい盛り上がりでしたが、始まる前ってそんなに盛り上がってなかったんですよ。だからやっぱり一歩踏み込めなかったですね。
鬼頭:清水エスパルスからオファーはなかったんですか。
反町:ないわけではなかったですね。でも、もうずっと全日空、横浜フリューゲルスで主力でやっていたから、そんなにパンチのある誘いじゃなかったですね。年齢もありましたし。
ヒデ:どんな現役生活でしたか。
反町:楽しかったですよ。サッカーで飯を食うことができない時代を経て、最後にプロ化の波が押し寄せてきて、チャンスをもらえた。やっぱり非常に嬉しかったですよね。

ヒデ:引退後はすんなりと指導者になったんですか?
反町:引退した後バルセロナに行きながら、今でいう指導者A級ライセンスを取って、その次の年にS級を取りました。
ヒデ:すごいですね。ちゃんと未来図を描いていて。指導者になって学んだことは?
反町:選手にどんな声掛けをするか。指導者の一言で、どれだけ選手が大きく変わるのかっていうのはやっていくうちに学びましたね。こうして成長していくんだっていうことがいろんな経験をして分かってきた。指導者冥利に尽きるかなと思いますね。
ヒデ:でも、いいことばかりでもないですよね。
反町:プロになると当然結果も重視されますから、やはり選手の成長だけを考えても駄目。チームの成長、勝利をやっぱり追い求めなきゃいけないので、大変ですよね。
ヒデ:先発11人を絞るのもめちゃくちゃきついでしょうね。
反町:そうですね。当時はベンチに入る人数も少なかったですし、交代も3名でしたから。

鬼頭:松本山雅時代のサポーターからメッセージが届いています。「反町さんが松田直樹選手を連れてきてくれた。前田大然選手を見つけてきてくれた。やっぱり山雅のレジェンドです」と。やっぱり選手を見る目も大切ですね。
反町:(笑)…。ワールドカップのカタール大会の時、みんなに馬鹿にされたことがあります。当時メンバーだった山根視来(LAギャラクシー)は松本山雅の練習に参加してたんですよ。「反さん、全然僕のこと気づいてくれなかった」って。
ヒデ:山根君、それはしようがない(笑)
反町:もう1人いるんですよ。古橋亨梧(セルティック)。
ヒデ:駄目じゃねえかよ。
サッカー好きの子どもを増やす「これが一番大切」
鬼頭:2008年北京オリンピック日本代表の監督もやってらっしゃいました。現在のパリ五輪の予選はどう見ていますか。反町:組閣したのはそもそも僕なので、手に汗握りながら見ています。海外組の選手が増えてますし、能力の高い選手が多いと思いますが、今回のメンバーがベストかというと、そうでもないんですね。でも、それは理由にできないので。
ヒデ:今のJリーグ、静岡の4チームについて聞きたいです。清水がJ2にいるというのはちょっと寂しいです。
反町:ジュビロはすごく良かった時代がありますし、エスパルスも「オリジナル10」ですし、少し寂しいところはありますよね。でもそれだけ、Jリーグのレベルが高くなってきているという証拠でもあると思います。
ヒデ:なるほど、そうかもしれませんね。
反町:何が駄目なの?って言われちゃうと答えられないですよ。ただ、やっぱりサッカーを好きになる子どもたちを増やす、底辺を広げる、これがやっぱり一番大事ですね。
野球の大谷選手がグローブをプレゼントしたというニュースがあったじゃないですか。「やられたー」と思いました。
ヒデ:野球をやらせようって親御さんが多くなったと思いますよ。
反町:グローブが学校にあったとしたら、みんなキャッチボールしますよね。だから長谷部(長谷部誠・元日本代表主将)には、静岡の全小学校にボールをプレゼントしてほしいな(笑)
ヒデ:そうですよ。「心が整いました」って本を出してもらいましょう。
反町:先日、あいつから電話があったんですよ。引退発表する10日ほど前に「引退します」って。
ヒデ:ソリさんが自分で(ボールを)プレゼントすればいいのにって話ですけど(笑)
鬼頭:最後にサポーターにメッセージを。
反町:日本のサッカーを盛り上げるためには、皆さんの力が必要です。サッカーって道具がなくても、誰でも人が集まればすぐにできる。身近なスポーツとしてエンジョイしてもらいたいなと思います。