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静岡新聞運動部

【静岡の高校サッカー戦後史Vol.39】 1980年度の清水東、選手権決勝で古河第一に1−2屈して準優勝

【清水東高⑩】選手権 またも決勝の壁

※2011年3月〜11月に「静岡の高校サッカー 戦後の球跡」のタイトルで静岡新聞に掲載した連載を再掲しています。年齢等も掲載当時のままです。

1980年度全国選手権決勝。古河一陣内に攻め込む清水東=国立競技場


夏の全国総体で2度目の頂点に立った1980年(昭和55年)度の清水東は、続いて冬の全国選手権初制覇を目指した。

全国選手権は初めて出場した74年度に決勝まで勝ち上がったが、あと一歩で優勝を逃した。県勢にとっても、70年度の藤枝東を最後にタイトルから遠ざかっているとあって、どうしても手に入れたい栄冠だった。

梅田和男ら1年を投入

総体終了後の清水東は、大学受験の関係で例年通り、3年生の多くがユニホームを脱いだ。このうちの2人は守備陣のレギュラーだった。その穴を埋めるべく、監督の勝沢要(静岡市清水区在住)は、1年生の梅田和男(静岡東教)浄見哲士(横浜市在住)ら、若い力を投入した。

大学受験を控える3年生が総体を一区切りにするのは、進学校の宿命である。指揮官にはその都度、チームを再構築することが求められる。「同学年で固めるに越したことはないが、全体のバランスが取れた方が、チームとしてかみ合う」とみていた勝沢の下、チームは再び戦う集団としての力を養いながら、選手権に挑んだ。

県予選は第二関門のリーグ戦を得失点差で辛うじて突破した。「1度、死んだようなもの」とは主将だった高橋良郎(清水東教)。同時に「負けないだろうと思っていた」といい、決勝トーナメントも苦戦の末に勝ち抜いて、6年ぶりに全国選手権行きを決めた。

“静岡の鬼門”を突破

全国舞台は準々決勝の帝京(東京)戦がヤマ場だった。相手は前年度の覇者であり、会場は県代表が3年連続、煮え湯を飲まされていて、当時、“静岡の鬼門”とさえいわれた西が丘サッカー場だった。

だが、前半3分、内田一夫(前J甲府監督)のロングシュートで先制して早々と主導権を握り、3−1で難敵を退けた。“鬼門”での戦いも制し、準決勝は岡崎城西(愛知)と対戦した。下馬評では優勢だったが、苦戦を強いられ、0−0で迎えた後半37分の高橋のヘッドシュートで、ようやくけりを付けた。

決勝はやはり初Vを狙う古河一(茨城)が相手だった。速攻が身上で、勝沢は「やりのようなサッカー」と評していた。反町康治(J
湘南監督)の右折り返しを沢入重雄(サッカー解説者)が決めて追い付いたが、速攻から決勝点を奪われ、1−2で涙をのんだ。

関東勢の古河一にV決戦で屈した清水東。この時から、「打倒関東」に燃える日々が続く。(敬称略)
シズサカ シズサカ

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