​【「たきいとやまだの会」の「刺青」】 たきいみきさんの「一人四役」。クレシェンドとデクレシェンドが同時進行

静岡新聞論説委員がお届けするアートやカルチャーに関するコラム。今回は、藤枝市を拠点に活動する劇団「ユニークポイント」の山田裕幸代表と、静岡県舞台芸術センター(SPAC)でも活躍する俳優たきいみきさんを中心にした集団「たきいとやまだの会」による「刺青」を題材に。同市の「ひつじノ劇場」の9月21日午後7時半の公演を鑑賞。同作は22日午後7時半にも同じ会場で上演。10月4、5日は鳥取県内で開かれる「鳥の演劇祭」で上演。
 
2023年6月に静岡市葵区の登録有形文化財「鈴木邸」で初めて本作を見た時の衝撃は忘れられない。古民家の大広間で演じるたきいみきさんの一人芝居は、名状しがたいオーラを放っていた。物語の朗読の先にある、二つの相反する役柄を一つの体で引き受けていた。

終演後の、それまで味わったことのない「居心地の悪さ」は今でも覚えている。あれは「演劇」ではなかったのかもしれない。自分が当事者として作品に取り込まれるような恐怖があった。

再度の鑑賞となる今回は、「怖いもの見たさ」の側面があった。谷崎潤一郎原作の「刺青」は、彫師清吉が自らの審美眼にかなった娘の背中に巨大なジョロウグモの入れ墨を施す話である。清吉は偶然出会った娘を籠絡し、さらには一服盛って本懐を遂げる。だが、背中にジョロウグモを背負った娘は、魔性の女へと変貌する。

支配/被支配の逆転が妙味の一つ。だから一人二役ではない。関係性の逆転が起こるので、「支配する清吉」「支配される清吉」「支配される娘」「支配する娘」の「一人四役」と言ってもいいだろう。

たきいさんはこの一人四役を、第三者的な朗読をベースにして演じ分ける。支配→被支配と被支配→支配は徐々に進行していく。音楽に例えるなら、クレシェンドのピアノとデクレシェンドのバイオリンを同時に演奏しているようなものだ。

たきいさんは一つ一つの場面に二つの魂を宿す。例えば清吉が人を運ぶ駕籠から伸びる、娘の白い足にほれ込むフェティッシュな場面。「肉の宝玉」「玉のようなきびすの丸み」などと清吉目線で語るせりふは、舌なめずりの音が聞こえてきそうだ。

同じ場面でたきいさんは自分の足を使い「視姦」の対象となった娘の足を演じてみせる。椅子の上に置いた足を少しずつ、少しずつくねらせていく。言ってみれば上半身が清吉で、下半身は娘。何という繊細な「演じ分け」か。

観劇後、やはり自分の体内に「居心地の悪さ」があった。今回はその正体、由来もはっきりした。空間を共有する観客一人一人の肉体が、演じ手の体に接続されていく。演技の力は、それを拒むことを許さない。サディスティックな清吉の愉悦を、入れ墨の後の湯あみの七転八倒の苦しみを、観客は自分のこととして受け入れることになる。

人間は誰もが大小の加虐/被虐の欲望がある。たいていの場合、それは覆い隠されている。「バレたらどうしよう」という不安がつきまとう。

「刺青」は、観客一人一人にこの欲望の在りかを示す。場合によっては手を突っ込んで引きずり出す。私たちは、その存在を他人に指摘されたくない。だが「刺青」は容赦なく、後ろめたさの詰まった感情をえぐり出す。40席ほどの小さな劇場だからこそ生まれ得る、強烈な演劇体験を得た。今回も長く余韻が続きそうだ。

(は)

静岡新聞の論説委員が、静岡県に関係する文化芸術、ポップカルチャーをキュレーション。ショートレビュー、表現者へのインタビューを通じて、アートを巡る対話の糸口をつくります。

あなたにおすすめの記事

人気記事ランキング

ライターから記事を探す

エリアの記事を探す

stat_1