
東京・西荻窪の古書店で働く詩人が、かつての居場所と現在の居場所を題材に言葉を紡ぐ。写真家は詩人の「眼」となって、見たものを切り取る。
と、言ったような非常にシンプルな2冊である。策を弄さない営為のすがすがしさが漂う。詩人の言葉はぶつぶつ、ぶつぶつとまるで独り言のように並んでいる。
「掛川詩」では過ぎ去った時間、人が語られる。一方「西荻詩」は今、目の前にある景色が起点になっている。写真も黙って足並みをそろえる。視線が遠くに届く、ヌケのいい「掛川詩」。どこか閉じた印象が強い「西荻詩」。2冊別々に製本されている理由がよく分かる。
「詩とは何か」という根源的問いを感じ取った。「掛川詩」の冒頭に「気配を感じるが見えなくなっている存在に触れようとするアプローチが詩ではないだろうか」と書かれている。そうだな、と思うし、そうじゃない、とも思う。
「掛川詩」の中ほどに、タイトルなしの文章がある。一部を引用する。
散文を書くときとは 主張があるときだ
詩を書くときとは 行方しれずのときだ
詩人はこの後、「明瞭な主張を明瞭に伝えたいときには散文を用いる」とし、「書き手の自分にとってすら不明瞭であることを不明瞭なままに表現するのが詩だ」と続ける。「明瞭に伝わったなら、それは詩として失敗だ」とも書いている。
だとすれば、この作品は散文なのか、あるいは詩なのか。書き手の意図は不明瞭だが、主張は明瞭だ。読み手の一人としては「散文、詩のどちらでもない」と感じる。どちらでもない別の表現を、ここで生み落としている。
活字の効力に思い至った。曖昧で、言語化しにくい、どっちつかずの感覚が、活字なら伝わる。パソコンやスマートフォンのモニターでは、輪郭が崩れてしまう気がする。
今回の詩集をベースにした展覧会「掛川詩」が6月11日から29日まで、静岡市葵区鷹匠のひばりBOOKSで開かれる。27日午後6時半からはアーティストトークも予定される。
(は)