札幌戦でゴールを決め4試合連続のハットトリックを達成した中山(左)=1998年4月
【スポーツライター・望月文夫】
「オー ナカヤマ(ウッ、ウッ)。ナカヤマ、ナカヤマ、ゴンゴール」、「中山隊長、ゴンゴール」。
サポーターの声援を受けたゴンことジュビロ磐田のFW中山雅史が、リズムに合わせた歓喜のダンスを披露する。ピッチでは常にガムシャラにゴールに向かい、磐田を黄金期へ、そして日本代表を上昇へと導き、多くのサッカーファンを魅了してきた。
J1通算355試合出場で157得点は歴代4位(2025年5月現在)、日本代表でも53試合に出場し21得点で同13位(同)。Jリーグ創設後の1990年代から大きく成長した日本サッカー界を、中山は先頭に立ってけん引。後にリーグ戦4試合連続ハットトリック、日本代表でも最短ハットトリックを演じるなど、ギネスブックにも名を刻む伝説となった。
伝説の始まりは1992年8月、ダイナスティ杯
その「ゴン中山伝説」が始まったのは、1992年8月29日。東アジアの4か国(日本、韓国、中国、北朝鮮)が争う第2回ダイナスティ杯(中国)決勝の宿敵韓国戦だった。先発組に中山の名はなく、サブとしてベンチで陣取っていた。日本代表が劣勢の中、0−1で迎えた後半33分に出場した中山は、わずか5分後にMFラモス(ヴェルディ川崎)のスルーパスを右足で押し込む。日本代表にとっても、韓国相手の国際Aマッチでは1985年10月以来8試合ぶりの得点だった。延長からPK戦までもつれたが、1984年9月以来となる韓国からの勝利で大会初優勝に輝いた。
「あの得点で自信がつき、プレーに幅が出てきた。シュートも冷静に決められたし、オレって天才じゃないかってね(笑)」。すでに恒例となっていた中山節も飛び出し、メディアを介して人気は全国区へと広がった。
4試合連続ハットトリックを達成した中山=1998年4月
アジア杯・中国戦の劇的ゴール
それから2か月後の10月に広島で開幕した第10回アジア杯で日本代表は、グループリーグで北朝鮮と対戦した。ここでも0−1となった後半33分からピッチに立つと、出場わずか2分後にFW三浦知良(ヴェルディ川崎)のコーナーキックを頭で同点弾。逆転勝利はならなかったが、貴重な勝ち点1を積み上げ日本代表のベスト4進出に貢献した。すると「連続してカミカゼを吹かせた救世主中山」に注目が集まり、期待は日増しに大きくなった。そして迎えた中国との準決勝で中山は、2−2となった後半30分に満を持して出場。だが日本代表はすでに退場者を出し、数的劣勢で崖っぷちだった。それでも周囲は、「2度あることは3度あるかもしれない」と救世主に期待を高めた。
出場から9分後、奇跡の瞬間が訪れる。MF福田正博(浦和レッズ)のクロスを頭で合わせた会心の決勝弾だった。勢いを維持した日本代表は決勝でサウジアラビアを下し、大会10回目にして初優勝を手にした。
今も続く“ゴン”への期待感
中山は高い決定力と勝負強さを示し、さらにチームを盛り上げるムードメーカーとしても日本代表に不可欠な存在となった。「自分のためにも日本サッカーの将来のためにも出場は不可欠なもの」と位置づけたW杯はドーハの悲劇から4年後、1998年フランス大会でリベンジ初出場を果たし、W杯での日本人得点第1号という偉業を成し遂げた。
その後も数々の偉業を達成したレジェンドは、やがて選手から指導者へ。ガムシャラに向き合う姿勢は、立ち位置が変わってもまったく衰えることを知らない。また、どこかで奇跡を起こしてくれるのではないか、そんな期待とワクワク感を多くの人が持ち続けている。
【スポーツライター・望月文夫】
1958年静岡市生まれ。出版社時代に編集記者としてサッカー誌『ストライカー』を創刊。その後フリーとなり、サッカー誌『サッカーグランプリ』、スポーツ誌『ナンバー』、スポーツ新聞などにも長く執筆。テレビ局のスポーツイベント、IT企業のスポーツサイトにも参加し、サッカー、陸上を中心に取材歴は43年目に突入。