(文/論説委員・橋爪充、写真/写真部・久保田竜平)

2025年の第32回松本清張賞の受賞作にして住田さんのデビュー作。18世紀後半から19世紀前半にかけての比叡山延暦寺を舞台に、死を賭けた過酷な修行「千日回峰行」に挑む僧たちの姿を描く。
出自に悩み、出自ゆえに叡山でのし上がろうとする二人の僧の関係のきしみ、複雑な愛憎、1000年の歴史を背景にした仏教社会の政治力学が、清浄であるべき千日回峰行の姿をゆがめようとする。聖職であるはずの僧たちの社会なのに、正邪でぱっきりと割り切れない人間の行動原理が見え隠れする。
宗教は異なるが、2025年に話題になった映画「教皇選挙」を思い出した。地位と力に魅入られ、伝統に絡め取られる人間の、哀れな姿が心に残る。
筆者は2021年に東京国立博物館で開かれた「伝教大師1200年大遠忌記念 特別展『最澄と天台宗のすべて』」で千日回峰行を知った。平安時代前期の相応和尚が始めたとされる荒行。「白鷺立つ」では次のように説明されている。
1)比叡山の険しい山道約30キロを毎晩歩く。
2)3年目までは1年につき100日を連続で歩き通す。
3)4、5年目は200日を連続で歩き通す。
4)都合700日の回峰を終えた者は、その日のうちに明王堂に入る。
5)足かけ9日間の断水、断食、不眠、不臥の行に入る。
6)6年目は5年目までの道程に新しい往復が加わり、総計60キロを毎日歩く。
7)7年目は比叡山だけでなく、京都の街中も歩く。1日84キロ。
8)最後の75日は最初の5年間で歩いた道程を行く。
達成できれば大行満大阿闍梨の称号が与えられる。だが、途中で失敗すると自死が求められるという。行不退。行者は死出紐と短剣を持ち歩く。進むも地獄、退けば死。「人でないもの」になるためには、人ならぬものとしての覚悟が必要らしい。
東京国立博物館の展覧会では明王堂での修行を終えた僧の様子を、映像で見ることができた。精根尽き果てた様子の法衣の男性が、2人の僧に肩を担がれ堂の階段を降りる姿があった。
それから4年数カ月後に、小説で壮絶な荒行の内情を克明に知ることになろうとは、夢にも思わなかった。本作の冒頭には明王堂参籠(さんろう)、通称「堂入り」をもうすぐ終えようとする僧の描写がある。博物館の映像では見ることができなかった、明王堂での振る舞いが凄まじい緊張感でつづられている。
堂入りの成否に決着がついても、緊張は続く。千日回峰行が主題である以上、物語には最後まで死のにおいが漂う。だが、比叡山延暦寺としては、とある人物を千日回峰行の「掟」を曲げてでも生かしておかなくてはならない事情を抱えている。この矛盾が新しい緊張を次々運んでくる。
生きるとは何か。生きる理由とは何か。何度も問いかけを聞いたような気がした。こんなにも緊張感が持続する小説は珍しい。







































































