
父親が出奔し、引っ越しもできないまま古い長屋で暮らす爬虫類ペットショップの店員、金本篤。生徒とのあつれきに疲れ果て、乗り込んだ最終電車で遭遇した些細な理不尽によって「殺意」のスイッチが入ってしまった高校教師、西智子。類いまれな観察眼で売れっ子占い師にのし上がったものの、弟子入りを懇願した女性を受け入れたことで日々の生活が狂っていく自称「霊能力者」、坂東イリス。
3編それぞれに、主人公の周囲で「ヤバい」ことが起こり、本人の予想を超えるスピードで膨らんでいく。夏木さんが一貫して描いているのは、一見まともに見える人の裏側に潜む、常軌を逸した行動原理である。彼らの本性がじわじわとダダ漏れしていく過程にぞわっとしながらも、高揚してしまう。彼らの行動は常軌を逸しているのに、なぜだか腑に落ちる。常識を超えた切実さに「そうだよな」と同意すらしてしまう。
第3編「占い師B」の坂東イリスは、目の前の相手をとことん観察して、相手のプロフィールを言い当てる。その思考回路、手法に「まるでシャーロック・ホームズみたいだな」と思って読み進めたら、別の人間が坂東に対してその通りの指摘をした。「それは確かに-私の知っている霊視の本質と同じではないか。」(159ページ)
シャーロック・ホームズの代表的な「霊視」エピソードは「青い紅玉」のそれだろう。自宅を訪ねてきた警部が持参した古い帽子から、ホームズは所有者について「3年前は裕福だったが現在は落ちぶれている」「彼はもう妻に愛されていない」「中年で運動不足」などと推理する。
「占い師B」では、坂東が「歌手志望の女」を前に「あなたには会話のセンスがない」「転機は去年の九月」「夜のお店で働いていたが、体も生活も破綻しかけた」などと、次々言い当てる。子どもの頃に「青い紅玉」を読んだ時のカタルシスがよみがえった。
「Nの逸脱」は推理小説集ではないが、人の本質を論理立てて暴く場面がいくつかあって、それがなんだか心地いい。全世界のシャーロキアンも賛成してくれるだろう。
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