
「存在のすべてを」は過去の2児同時誘拐事件と、それを追う新聞記者に、何かと硬直的な画壇のありようを交差させていた。「踊りつかれて」も同様の座組みでスタートしている。置き換えるなら、2人の著名人を誹謗中傷した一般38人の情報をウェブ上にさらす〝私刑〟と、その実行者の背後を探る女性弁護士に、現在過去の音楽業界のありようを交差させている。
塩田さんご自身が神戸新聞社に在籍していたからと思うが、どちらの作品もメディアの功罪について深い考察がある。ただ、「踊りつかれて」が扱うSNSは、いまだ「正しさ」の論拠が確立されていない世界だ。本作は前作の問題提起をさらに拡張している。
本作はまず、いわゆる「芸能人たたき」がもたらした悲劇的な結末と、そこにいたる顛末をとある人物の独白で説明する。バブル期の芸能界で一時代を築いた歌姫・奥田美月はスキャンダル報道で芸能活動を停止した。不倫報道をきっかけにSNSで誹謗中傷を受けた人気お笑い芸人・天童ショージは自死した。奥田についての嘘にまみれた記事を載せた週刊誌関係者や、SNSや動画サイトで天童を追い込んだネットユーザーはある日突然、窮地に追い込まれる。とあるブログが彼らの名前、住所、勤務先などをさらし、彼らの悪行を告発したのだ。かつての「加害者」が「被害者」に反転。「実行犯」の真意はどこにあるのか-。
1ページ目から続く「実行犯」の呪詛にも似た宣戦布告の切れ味に圧倒される。「よく聞け、匿名性で武装した卑怯者ども」「何が『奥さんがかわいそう』だ。おまえらに何の関係がある。その『かわいそうな』奥さんの心の叫びを代弁してやろうか? 『放っといてくれ!』だよ」「感想なんて言葉でごまかすんじゃねぇ。陰湿な悪口だ。それが証拠に匿名じゃないと都合が悪いだろ? 調べもしねぇ、興味もねぇ、つまり批評でもねぇ」「明日にはおまえたちの人生はめちゃくちゃになっている」
一つ一つの啖呵に快哉を叫びたくなる一方で、背筋が寒くなる。作品全体を覆う居心地の悪さこそ、本作の美点と言えよう。自分が被害者になるだけでなく、ふとした瞬間に加害者にもなる可能性を自覚させられる。エコーチェンバー、フィルターバブルの危険性が目の前に立ち上る。匿名で他人を糾弾する人物に与えられた「安全圏のスナイパー」という称号は、言葉の暴力性を改めて浮き彫りにする。塩田さんの怜悧な表現が冴える。
「存在のすべてを」との連続性で言えば、イギリスの作家サマセット・モームの「月と六ペンス」が「踊りつかれて」にも出てくる。引用された「義憤には必ず自己満足がふくまれていて、ユーモアのセンスがある人間ならだれでもきまり悪さを感じるものだ」が、二つの小説の結節点のように感じられた。
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