
「逃亡者は北へ向かう」は、平時ではありえないこの特殊な判断を糸口に組み立てられている。柚月さんは、狭い穴に両手を差し込み、ぐいぐいぐいっと押し広げるように心を震わせる物語をつくりあげた。現実とフィクションの境目が見えない。作家としての「腕力」を感じる。
拘留中の容疑者釈放という緊急事態については、福島県内の警察署の刑事第一課長と部下のやりとりが、ことの重要性を伝える。
「仕方がないだろう。この状況下では目撃者情報も得られなければ、供述の裏付けもできん。これ以上の捜査は難しいと、地検が判断したんだ」
「この状況下だからこそ、被疑者の確保が必要でしょう!」
(中略)
「俺だって、忸怩たる思いなんだ!」
東北の各署でそれぞれに、これに似たような対話があったのではないかと想像する。「逃亡者は北へ向かう」は、こうした事情で釈放された男が「気の毒な状況」の帰結として重大犯罪の当事者になる話である。災害時に起こりうる事象を、優れた作家は先んじて物語化する。本作は予言的な内容を含むと言ってもいい。遠からぬ未来の被災地でこうした事件と人間模様が発生しても、何ら不思議ではない。
福島県内の居住地から岩手県に向かう男。大震災で崩落した道路や山肌、倒壊した家屋を乗り越えて北へ北へと歩を進める。その理由は何か。物語はロードムービー的な色彩を帯びる。
途中、奇妙な同伴者が現れる。目的地が近づくにつれ、同伴者は男の心の欠落を満たす存在として大きくなっていく。この過程が、情緒に流されすぎない筆致で描かれていて、読み手の心を強く揺さぶる。
犯罪とは。加害者とは。本作はこの二つの問いを通じて、人間の在り方そのものを描き出している。
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