
戦後間もなく「新詩派」「詩行動」「今日」といった戦後詩の歴史に欠かせない詩誌を創刊し、1951年の第1詩集「廃墟」、1954年の第2詩集「種子と破片」など、文筆活動全般が高く評価された平林敏彦さんは4月6日、100歳8カ月の生涯を終えた。
80年以上にわたる執筆を網羅的に語る資格はないが、「斜塔から」の三浦雅士さんの論考「廃墟と錯乱ー詩人復活の背後」には、深くうなずける箇所がいくつもある。
平林さんの詩人としてのキャリアには「種子と破片」の後、34年間の空白期間がある。第3詩集「水辺の光 一九八七年冬」の刊行は1988年。その間、詩壇とは距離を置いていた。三浦さんはこの「詩人復活」について、「詩壇は驚きに包まれた」と書いている。何が驚きだったか。平林さんが30年以上経過しているのに、作品の口調が「変貌していなかったこと」だった。
戦後復興期から高度成長期を経て大量消費社会の1980年代に、平林さんは「長い年月の断絶も、飛躍も、変貌も」全くないまま、再び姿を現した。三浦さんは複数の読み解きを経て、「人生をひとつの廃墟として捉える思想はすでに青春期の段階で形成されていた」と指摘する。
この説は、「斜塔から」の冒頭部分に置かれた平林さんの10代のころに書いた詩によって裏付けられている。目線は低く、将来に対する無防備な希望的観測はほとんど見られない。感度の高いセンサーが受信した信号を、冷徹に言語化している。
2021年の「言葉たちに」(港の人)発刊時にインタビューした際は、なかなか受け答えが難しい状態だったが、太平洋戦争末期の陸軍で受けた数々の仕打ちについては力が入っていた。戦争は、平林さんの生まれ持った気質をさらに強化したに違いない。
「鋭敏」の2語がよく似合う、最後の「戦後詩人」が逝った。
(は)