清水芸妓のお噺し
語り:春風亭昇太
江戸時代、徳川家康は海上交通の要衝として巴川の河口に港町を作りました。
港町清水は物流の拠点として栄え、芸妓を抱える置屋が集まる花街も形成されました。
明治22年に東海道線が開通し、のちの清水駅となる江尻駅ができると、駅の周辺に新たな賑わいが生まれ、花街も江尻地区に移っていきました。
明治30年代、清水港は国際貿易で発展し、清水のまちでの商取引もますます盛んになっていきます。
芸妓の唄や踊りは、商談の場を和ませる役割を担い、清水の経済発展を支える存在になっていきました。
大正2年の記録では、置屋の取りまとめを行う見番が「清水」と「江尻」の2カ所にあって11軒の置屋があり、50人ほどの芸妓がいたとされています。
昭和の初期になると芸妓の数は100人ほどに増えていましたが、太平洋戦争で、花街も大きな打撃を受けました。
復興に向かう昭和26年には、全国初の芸妓の学校、「清水芸妓学校」が開校し、150人ほどの芸妓が集まったと言われています。
昭和40年代後半からは、商習慣の変化によって、芸妓の活躍の場は減っていきました。
花街の伝統を守ろうと、経済界の有志が昭和48年に芸妓を支援する「清美会」を発足し、それが現在の「静岡伝統芸能振興会」となりました。
静岡大火、静岡大空襲での被災が痛手となって消えかけた静岡芸妓の伝統も清水芸妓に継承され、静岡の伝統芸能はこれからも続いていきます。
静岡市歴史めぐり まち噺し 今日のお噺しはこれにて。
静岡市の観光親善大使でもある春風亭昇太師匠の語りで、歴史や文化、特産品など、静岡市の魅力を紹介するミニ番組です。(毎週日曜日ひる12時54分放送)