ウェルビーイング(良い状態)を求める人生は幸せ? 医療人類学者と病院理事長が江戸時代の『養生訓』に学ぶ 命を全うする生き方 考え方

医療の進歩に伴い、人々の「健康」や「ウェルビーイング」への関心が高まっている。新型コロナウイルスの感染防止のため、暮らしの営みの多くが「不要不急」として自粛を求められた緊急事態宣言の発令から2025年4月で丸5年。

『コロナ禍と出会い直す』著者の医療人類学者・磯野真穂東京科学大教授と、コロナ禍も全ての患者家族に寄り添う医療を提供し続けた静岡市立静岡病院の小野寺知哉理事長がこのほど対談した。

江戸時代の「養生観」から、現代の医療との向き合い方、医師との付き合い方まで、幸せに生きるためのヒントを探った。進行はSBSの野路毅彦アナウンサー。

野路:医療人類学では「健康」をどう捉えますか?

磯野:まず、健康という概念がいつごろ日本社会で生まれ、人々にどんな影響を及ぼしたのか、というところから考えます。昔から健康という概念があったわけではありません。江戸時代の医師で儒学者の貝原益軒が記した『養生訓』には、「健康」という言葉は1度も出てきません。「養生」という言葉は出てきますが、「健康」ではないんですね。歴史学者・鹿野政直さんの『健康観にみる近代』によると、「健康」という言葉が使われるようになったのは、遅くとも幕末からですが、幕末には庶民が広く使う言葉ではありませんでした。これほどまでに「健康」といわれるようになったのは明治以降だそうです。

『養生訓』に出てくる「養生」はもちろん、体を大切にしましょうという意味ですが、医学的な健康とは基本的な考え方が違う点が非常に面白い。『養生訓』に記されている、いわゆる「健康観」は、「孝」を尽くすために養生しなさいということです。あなたの命、あなたの体は、お父さんお母さん、そして天からいただいたものです。それに対して感謝を尽くすために、自分の体を大事にして、きちんと生きなさいといっているんです。

『養生訓』には、「天」という言葉が何度も出てきます。総論の上と下に分かれていますが、上だけで、100回以上も出てくるんです。そして、「寿命」ではなく「天年」と書かれています。「天から与えられた年を生きる」という考えに基づいています。

現代の医学書に、「天」という言葉はないでしょう。西洋医学が国内に広がるにつれて「天」という言葉は消えていきました。そしてこの体は人間がコントロールできるのだという考えが入ってきたのが、今の私たちが共通認識として持っている「健康」という概念だと、私は理解しています。

寿命を「延ばそう」という考え方とは違う

野路:「寿命」のことを「天年」と呼んでいた時代は、命の長さはあらかじめ天から決められているもので、それを延ばそう延ばそうという考え方とは違うということですか?

磯野:「寿命を全うする」ということですね。いただいた恩を返していこうというイメージがかなり強いのが『養生訓』です。しかし今は、医学的な考えを基に、「親からもらった体をちゃんとしろ」なんて言うと、もはや人権侵害のレベルになってしまうかもしれないですが、行き過ぎさえしなければ、私はこの『養生訓』の中にある「養生観」、命の観念というのは、とても素敵なものだと思います。今は常に、医学の知識が生活にどんどん拡大している実感があります。

野路:磯野さんはコロナ禍に、介護施設でフィールドワークをされました。介護というのは、医学とはまた少し違うジャンルですよね。

磯野:そうですね。例えば、おじいちゃん、おばあちゃんがこれを食べたいなら食べさせてあげようという考えは、どちらかというと介護だと思います。乱暴な分類かもしれませんが、「いや、これを食べると誤嚥するかもしれない」「これを食べるとこんなリスクがあるかもしれない」と、“未来のために今を使う”考え方をするのが、現代の医学です。これはやはり統計学が入ってきたことが大きいと思います。

野路: 小野寺さん、身体的な健康を第一に考えることによって、幸福度や満足度を損なっているかもしれない。これが一つ、ウェルビーイングを考える時の観点かとも思うのですが?

小野寺:確かに、長生きすることがいいことなのかという話にもつながりますね。
今、医療にかかりたくないという人がほとんどです。薬だって飲みたくないにきまってるわけです。お酒が好きな人はお酒を飲みたい、タバコが好きな人はタバコも吸いたい。その方がよほど幸せだと思う人は当然いて、それ自体は否定されることではありません。医療はかなり押し付けがましいのですが、とはいっても、「こうしたら楽に生きられますよ」「タバコを吸うと病気になるリスクが高まるので、ちょっと我慢した方がいいんじゃないですか」と、ある程度自信を持って示せるくらいには、発展してきたと思います。『養生訓』にも、こうした方がいいよと書いてありますよね。

磯野:はい。「食べた後は300歩歩け」などと歩数まで書いてありますね。

小野寺:ただ、食べた後に300歩も歩きたくない、寝ていたいという人もいるわけですから、それは本人が選ぶことですね。そこに対する助言をしていくのが医療者の役目ですね。

循環器専門医にとっての健康は減塩第一?

野路:循環器内科が専門の小野寺さんからすると、健康とは何ですか?

小野寺:やはりニコニコ笑って生きるということだと思います。辛いといって生きるのではなくて、ニコニコ笑って生きることができたら、それが健康だろうと。それで周りの人はどれだけ迷惑を被るかということはあると思いますが、本人にとってはニコニコして生きられたら、それがいいことですよね。

野路:意外でした。お医者様ですから、健診の項目は全部A評価で、そのために食事も気をつけて筋トレもしてというのが幸せだとおっしゃるかと思いました。

小野寺: できたらその方がいいですよね。最近は、例えば血圧が低ければ楽に長生きできて、脳卒中にもなりにくく、心臓病にもなりにくいことが分かってます。 一番大切なのは減塩。醤油をかけるな、ラーメンを食べるなという話になるのですが、そんな生活はつまらないですよね。

高血圧学会から叱られるでしょうけど、私は割と、多少塩辛いものを食べても、薬をのんで済めばそれでいいじゃないかと言っています。しかし患者さんの側からすると、薬ものみたくないわけで、なるべく、何も(治療を)しないで、普通に楽しく暮らしていたい。患者さんが(高血圧が続くリスクと減塩の必要性を)分かっているならしょうがない。(今の生活を続けることで)命に直結することがあっても、ご本人がこの生活スタイルを続けたいと言うなら、あとは家族が納得していればいいよね、となると思います。

「疾病」と「病い」と「病気」を区別

野路:健康とは何かを、それぞれの立場で話していただきました。磯野さん、人類学者からみた「病気」とは、一般的な概念とはまた異なりますか?

磯野:面倒くさい話ばかりして申し訳ないのですが、これまた「病気」とは何かと一言で言うのはかなり難しいです。高血圧と診断される数値が時代によって変わるように、病気の定義はいつも同じというわけではありません。医学的には何の異常もみられないのに具合が悪いという方もいますよね。では、医学的に異常がなければ病気ではないのかというと、非常に難しいところなんです。

医療人類学では一般的に、「病気」を「疾病」と「病い」に分けて考えます。「現代医学」からみた時に、リスクや異常がみられる状態を「疾病」と呼びます。医学的には異常がないのに調子が悪いと本人が感じている状態を「病い」と呼びます。「病い」とはどちらかというと、本人の感じ方をよりどころとします。医療人類学ではこのように、「疾病」と「病い」を区別しながら研究を進めることが主流となっています。

そして、医療人類学でいう「病気」とは、「疾病」と「病い」に「社会」が関係してくることなんです。例えば、私がなんだかものすごく具合が悪いとします。「私、本当に調子が悪いんです」といっても、周りから「いや、平気だよ。気のせいだよ」といわれたら、私の所属する社会では、私が感じている体調不良は「病気」とは認められないということになります。

一方で、「私、全然元気だよ」といっても、「いやいや、あなたの状態はすごくまずい。その精神状態は病気だよ」といわれたら、私は社会で「病気」と捉えられているということになります。何が「病気」とされるかは、実は社会の状況に応じて変化する。なので医療人類学では、「病気かどうかは社会が決める」と考えます。

「社会化された病気」だった 新型コロナの特殊性

野路:では、新型コロナはまさに「社会化された病気」といえるのですか?

磯野:そうです。不調ではないのに、検査で陽性になったから「あなたは新型コロナ(の感染者)です。入院してください。行動制限もあります。濃厚接触者は誰ですか?行動履歴を聞きたいです」となっていく。まさに、「病気」が「社会化」されることを、皆さんが体験しました。

例えば著名人が、検査で陽性になっただけで、SNSで「すみません」と謝ったり、無症状なのに、「無症状ですが治療に専念します」といったり。もし「無症状ですが風邪になったので治療に専念します」という人がいれば、違和感を覚えるでしょう。でも、新型コロナは違った。こういう言い方にみんなが納得した。これがまさに「病気」とは「社会化」の結果生まれるという、人類学の考え方です。

小野寺:私も新型コロナは、「社会的な病気」であったと思います。感染症はどうしてもそうなります。本人の体調は何ともないのに、検査で陽性になった段階で差別を受けたり、隔離されたりということも起きた。重症化する人もかなりいましたが、症状が「ただの風邪以下」だった人も大勢いましたから。大多数にとっては、実は「社会的な病気」だったんですよね。

「病気の社会化」については、医学が進歩して、医学が「社会」の方にくみして、「これは病気だよ」と言い始めたという側面は、当然あります。血圧は年を取ると上がるのが普通です。60歳以上ともなると、半分の人が「高血圧」に分類される。 では、その人たちは病気ですか?といわれると、うーん、まぁ血圧は高いよね、でも別に本人はピンピンしているし、という話になるので、病気と定義するのはかなり難しいですね。

ただ、その人たちに薬をのんでもらって、血圧を下げると、もっと大きな(深刻な)病気にはなりにくいことは分かってきています。なので、「病気」のどこまでが社会的かというのも、かなり難しいです。血圧を下げると、脳卒中などのリスクも下がることはすでに明らか。一方で、リスクという概念を持ち出すと、大勢を「病気」に分類できてしまうという側面があるのも事実です。

磯野:医療と美容の境界もあいまいになってきています。例えば「医療ダイエット」「医療脱毛」という言葉が現れました。本来医学は、“よくなくなってしまったもの”を“元に戻してあげるもの”だったと思います。しかし医療は「病気からの回復」つまり「ー(マイナス)10を0にする」のではなく、「今ある状態をさらに良くする」つまり「0を10にする」ために使われるようになっています。そうすると際限がありません。

小野寺:(美容目的の医療であっても)投薬は医師にしかできないので、「医療」と名が付いている。ダイエットについては、病的な肥満は別として、「あなたが綺麗になるために注射をしましょう」というのは、本来の医療ではないと思います。ただ、医師の資格がない人が投薬を指示すると法律違反ですし、患者本人が「なんとかしたい」と望み、自費診療であってもそれに応えることは「治療」であるともいえますね。

野路:人類学的視点で見ると、医学の進歩によって、「病気」がある意味「生み出されてきた」という側面があることが分かりました。お二人に「死ぬまでにどう生きたいか」も聞いてみたいです。

小野寺: どうやって生きていくのか、そしてどうやって死ぬのかというのは、みんな、なるべく目をつぶっていたいだろうと思います。わざわざ考えるのか?ということですね。それこそ、国が「人生会議」と呼んでいる取り組みがあります。もしもの時に、どんな医療やケアを受けることを望むのか、家族や医療福祉従事者とあらかじめ話し合って共有しておくACP(アドバンス・ケア・プランニング)です。死ぬ時にどうしたいかを考えることは、死ぬ前にどのように生きるかを考えることでもあります。

野路:人生会議が大事だよとお医者さんにいわれて、父と話をしました。父は「意識がなくなって、口からご飯を食べられなくなったら、胃ろうはしなくていいからね」と。母からは口をつぐまれました。「あなたは私の息子なのに 私が死ぬ時の話をするの?」という感じだったと思います。人によって受け止め方が違うと感じました。

磯野:先ほどの美容の話は、ウェルビーイングの話と深く関係していると思うんです。ウェルビーイングとは、「良い状態」です。根っこには「今の状態は良くないから、良くしたい」という願望がある。良い状態にしたい。これ(ダイエットや脱毛など)をやったらもっとよくなる、もっともっとよくなると、その欲求が永遠に続くんです。飽くなき良さの追求ですよね。

その意味で私はやはり、先ほどご紹介した『養生訓』にある、命は親から、天からもらったものだから、それを社会にどうやって返していくか。そこを考えることが、私の中のウェルビーイングでありたいと思っています。人生会議については、私は両親から火葬の仕方までいわれています。骨も残さないで全部灰にしてほしいというのが両親の希望だそうです。

野路:ちょっとした笑い話で、「健康第一。健康のためなら死んでもいい」みたいなことをいう人がいて、皆さんは「馬鹿げてる」と思えると思いますが、コロナ禍を振り返ってみると、「感染対策第一。医療を崩壊させないためには、他の病気で死んでもいい」みたいな状況が、真面目な形であったなと思います。「健康第一」だけではなくて、 幸せな人生を送るためには、あるいは「養生」という考えを入れていくと、また違ったものが見えてくると感じました。

小野寺:いわゆる人生の「楽しみ」はいろいろあると思います。お酒を飲んで楽しい人もいるだろうし、ランニングが楽しい、記録を出すのが楽しい、ゴルフが上手になったから楽しいなど、それぞれの楽しさがあると思います。そういった「自己実現」に向かう楽しさが、生きていくうえでの総合的な目標だろうと思います。その目標が「コロナにかからないこと」であるというのは、いかにもおかしかったと思います。

「生きがい」でもなく

野路:「天年」という考え方に則って人生を全うするには、何か「生きがい」が必要でしょうか?

磯野:実は「生きがい」というのは日本語独特の言葉で、英語に訳そうとすると、なかなか訳せないんです。マシューズ・ゴードンという人類学者が「生きがい」について調査をしたことがあるくらい、独特なニュアンスを持つ言葉です。新聞の広告欄ではよく、「◯◯すれば健康になる」とうたう本が紹介されています。至る所で、健康が生きる目的であるかのように掲げられている社会なので、「健康」といえば「生きがい」、「生きがい」といえば「健康」に結びつけたくなる気持ちもわかります。ですが、なぜ日本に「生きがい」という言葉が存在するのか。数百年前までは「健康」という言葉は存在せず、「天年」を全うできるよう養生しようという考え方があったことを踏まえると、ウェルビーイングという概念の見方が少し変わってくるのかなと思います。

野路:どう生きて、どう死にたいかというのは本当に人それぞれだと思います。社会のシステムが、一人ひとりに個別に寄り添うのは難しいにしても、「こういうパターンじゃないと死ねませんよ。幸せじゃないでしょう?」というのではなくて、「そういう生き方も許容できます」といえる社会の方が、全体のウェルビーイングに近づいていくのかなと感じました。

小野寺:「正義」というものが、社会から押し付けられるのは問題かなと思います。「正義」はそれぞれ皆、自分の中にあって、人とぶつかることもあるわけですが、「100 対0」みたいな感じで、「これは正義だ」と、社会の方から押し付けられるのは嫌ですね。「盗人にも三分の理」といいますが、それぞれ自分なりの「正義」は持っているわけですよね。ただそれが 一つに固まって、「これをやらなきゃだめだ」「お前は何をしてるんだ」とならないことを、社会全体が許容できるといいですね。「私は正義を振りかざしているのではないよね」と、自分自身を客観視できるようになることが大事ですね。

磯野:医療人類学者としては、ウェルビーイングを取り立てて追求しなくてもいいと思います。ただ、非常にシンプルですが、かかりつけ医を見つけておくことは大切だと思います。日本では制度上、自由に、いきなり大学病院を受診することもできてしまいます。しかし自分の体が、他の人たちとの関わり合いの中でできていることを踏まえると、自分の人生の中にお医者さんがいた方がいいんです。そのお医者さんと、時間をかけて信頼関係を作っておくことを、意外と人々は忘れがちな気がします。

お医者さんにはさまざまなタイプの方がいて、怒ってくる人、コロナ対策もガチガチにやれという人、逆に小野寺さんみたいに、笑って暮らすのが大事だという人、あるいは自分のいうことを全部聞けといってくる人、まぁあなたがそういうならそれでいい、という人もいる。それぞれに個性があるので、どんなお医者さんとの関係が自分にとって心地いいかを見極めておくといいでしょう。とても具合が悪くなってから見つけるのは大変です。だからドクターショッピング的に“つまみ食い” をするのではなく、かかりつけ医を見つけておくこと。そして一方的にお医者さんに身を委ねるのではなく、「私はこうしたい」といえる関係性を築いておくことは、ウェルビーイングを保つのにとても重要だと思います。

野路:かかりつけ医を持つことは、医学界も大いに進めているところですね。

小野寺:そうなんですが、患者さんは普通、医者にかかりたくないですよね。健診を取っ掛かりに医療機関を受診して、相性のよさそうなドクターを見つけて、大したことのない病気であっても、相談していくことができるようになる。それがかかりつけ医なんだろうと思います。

磯野:会うだけで元気になるお医者さん、いますよね。具合が悪かったのに、話しただけで、なんとなくよくなった気がするお医者さん。意外とこういう感覚は重要な気がします。命というのは人間関係の中にあるので。

野路:付き合いの長いかかりつけ医は、患者がどんな仕事をしているか、お母さんお父さんがどんな病気をしたかということまで把握して診てくれますよね。自分の「健康」「ウェルビーイング」をトータルで考えてくださるお医者さんを、患者の側から育てていくといった考え方もいいかもしれませんね。

磯野:お医者さんにお任せできる部分もあると思いますが、お医者さんが決められない部分はあるので、患者側としても、どんな時にどう質問するかといったことも知識として、時間をかけて蓄えておくといいと思います。お医者さんとの関係も結局は「出会い」だと思います。

野路:ぜひ皆さんも、いいお医者さんに出会って、ウェルビーイングを実践していただければと思います。

<2人の略歴>
小野寺知哉(おのでら・ともや)
京都大医学部循環器内科臨床教授。循環器専門医。総合内科専門医。京都大医学部卒。同大医学研究科修了。米国シンシナチ大客員研究員などを経て1990年から静岡市立静岡病院勤務。2019年から病院長。23年から理事長兼務。25年4月から理事長専任
磯野真穂(いその・まほ)
東京科学大(旧 東京医科歯科大・東京工業大)リベラルアーツ研究教育院教授。早稲田大卒。オレゴン州立大大学院などで学び博士号(文学)取得。応用人類学研究所・ANTHRO所長。著書に『コロナ禍と出会い直す』『他者と生きる』など

(2025年3月22日にYouTubeチャンネル「SBSnews6」で配信した『人類学の視点で健康と病気の概念が覆る!医療人類学者磯野真穂氏と病院長対談 医療・医師とどう付き合う』を基に追加取材して一部加筆、再編集しました)

「あしたを“ちょっと”幸せに ヒントはきょうのニュースから」をコンセプトに、静岡県内でその日起きた出来事を詳しく、わかりやすく、そして、丁寧にお伝えするニュース番組です。月〜金18:15OA

あなたにおすすめの記事

人気記事ランキング

ライターから記事を探す

エリアの記事を探す

stat_1