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大河ドラマ「どうする家康」をきっかけに徳川を学ぼう!

 1月8日スタートのNHK大河ドラマ「どうする家康」を前に改めて徳川家康への関心が高まっています。しかし、気が付いてしまいました。実は家康の功績や人柄についてよく知らないことに。同じように感じている方もいらっしゃるでしょうか。「あなたの静岡新聞」ではこの機会に、一から学べる「今さら聞けない」情報を整理することにし、順次コンテンツを追加しています。本日は既に公開済みの記事からいくつかピックアップしてご紹介します。
 もっと知りたい方は⇒ 特設サイト「静岡県必読 今さら聞けない 徳川家康」

波乱万丈の物語 たぬきおやじのイメージ一新「嵐」呼ぶか

 約150年続いた乱世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた功績で知られる一方、ずる賢い「たぬきおやじ」として語られることもある徳川家康。そのイメージを一新する人間味あふれる家康が今年は“嵐”を呼びそうだ。8日スタートのNHK大河ドラマ「どうする家康」。戦嫌いの少年がピンチを次々に切り抜け、泰平の世を築くまでを描く波瀾[はらん]万丈の物語だ。

「家康ゆかりの地を訪れると、体の中に何かがたまっていくような感覚がある」と語る主演の松本潤
「家康ゆかりの地を訪れると、体の中に何かがたまっていくような感覚がある」と語る主演の松本潤

徳川家康 松本潤 静岡県内各地訪ね役作り
 イケメン御曹司や正義感あふれる熱血弁護士など、数々の作品で演技の幅を広げてきた“マツジュン”こと松本潤が、国民的ドラマの主演を託された。徳川家康は75年の生涯の約40年を本県で過ごし、県内にはゆかりの地が多い。「皆さんの地元の大スターである家康公を人間くさく精いっぱい演じたい」。従来のイメージを覆す新しい家康から目が離せない。
 「『嵐』の活動休止が決まって新しい何かに挑戦したいと考えていた時期のオファーでした。最初は『何で僕に? しかも家康?』という驚きがあり、すぐには決断ができませんでした」と明かす。出演依頼を受ける前の家康像は「多分世間の皆さんと同じ『たぬきおやじ』のイメージ」。だが、古沢良太の脚本を読んで印象が一変した。「素直でチャーミングな人。家臣の前で弱音を吐くし、なかなか成長しない。そんな駄目なところが人間くさく描かれ、演じていて面白いです」
 本作では、家康の10代前半から晩年までの約60年間を演じる。「13歳から演じるので年齢を重ねていく感じをどう出すか。何度も出てくる『どうしたらいい?』のセリフを『どうする? どうやって演じる?』とスタッフに迫る日々。1年続くのかと思うと結構大変です」とちゃめっ気たっぷりに語る。
 2代将軍秀忠の生母で掛川市ゆかりの側室、於愛[おあい]の方を広瀬アリス(静岡市清水区出身)が演じる。「おっちょこちょいな性格は素顔の広瀬さんに近いかも。乱世を生きる家康が明るい彼女に癒やされる感じが出せたらいいですね」
 役への理解を深めるため、ゆかりの地には「行き過ぎたと言えるほど、たくさん足を運びました」と笑う。「最初に参拝したのは久能山東照宮(静岡市駿河区)。あんな高い所に立派な社を建てて、家康という人物のすごさを感じました」。同市葵区の駿府城公園や浜松市中区の元城町東照宮なども訪れ、物語のイメージを膨らませた。
 両市で家康が「家康公」と呼ばれていることに対し、「地元の皆さんが本当に家康のことを大切に思っていて、『うちのスターを知ってもらうチャンス』という気持ちも伝わってきた。僕が演じることで町にいい循環が生まれたら光栄です」。瞳を輝かせ、期待に応える決意をにじませた。

瀬名 有村架純 温かく支える存在
 徳川家康の正室で、「嫉妬深い悪女」と伝えられてきた瀬名を、有村架純が演じる。家康同様、本作では従来のイメージを覆し、明るく朗らかな女性として描く。「瀬名は、家康が温かな気持ちになれる存在。隣でたくさん笑い、時にとぼけながら、重圧を背負う家康を大きな器で受け止めたいです」
 瀬名は、家康が人質となった今川家の家臣の娘。家康の初恋の女性でもあり、後に仲むつまじい夫婦となるが、乱世にのみ込まれるようにして非業の死を遂げる。
 役に臨むに当たり瀬名について調べたが、資料は少ない上、捉え方の違いも見えたという。「歴史に残る物語が全てではない、と痛感しました。それに『どうする家康』の人物像が、本人に近い可能性もあるなって」と想像を膨らませる。
 激動の時代をたくましく駆けた瀬名を「生きる覚悟を持った、力強い女性」と評する。優柔不断な家康をリードする場面も多いが、そんな彼女が「私的には大好き」だという。「男性が優位な時代だけど、2人はずっと目線が一緒。現代でも共感を得られるキャラクターになっています」
 松本潤が演じる家康の魅力を問うと「とにかく不器用で、『守ってあげたい』と思わせる力があるんです」とにっこり。「何かを決断する時も、決して独りよがりではなく、彼なりの正義感や周りへの思いやりがある。瀬名もきっと、そういうところが好きになったんじゃないかな」といとおしそうに語る。
 今年、30歳という節目を迎える有村。「いつか出演したいと願っていた大河ドラマに、このタイミングで挑めてうれしい。日々勉強し、楽しみながら過ごしたいです」

現代に通じるリーダー像描く
 猛者がうごめく戦国時代を生き抜き、天下人となった徳川家康。「英雄」とも「狡猾[こうかつ]」とも評されるが、「どうする家康」では、松本潤演じる主人公が苦渋の決断を重ね、周囲の力を得て乱世を制する姿を「現代に通じるリーダー像」として描く。
 強国に囲まれた弱小国、三河の岡崎城主・松平広忠の子として生まれた家康は、母と生き別れて今川家の人質となり、父も失うなど、孤独な少年時代を過ごした。
 やがて、今川家と織田家が激突する桶狭間の戦いが勃発。その後の混乱のさ中、松平家の再興を願う家臣と共に、岡崎城を取り戻すことに成功する。だが、それは苦難の始まりでもあった。
 「家康は英雄になりたかったのではなく、心から平和を願っていた」と語るのは、磯智明チーフ・プロデューサー。大名の子に生まれた宿命でよろいをまとわされたと考えている。
 「普通の感覚を持っていたからこそ、大きなことを成し遂げられたのかもしれない。器の大きいところも、ちっぽけなところも見せ、視聴者の方に『自分にも何かを成し遂げられるはず』と感じてもらいたい」
 脚本を手がけるのは、映画やドラマ、アニメなど幅広い分野でヒット作を生み出してきた古沢良太だ。家康を「次から次へと襲い来るピンチを四苦八苦しながら切り抜けた人」と捉え、その波乱に富んだ人生をエネルギッシュに表現する。
 共演陣も華やかな顔ぶれだ。織田信長役に岡田准一、豊臣秀吉役にムロツヨシ、今川義元役に狂言師の野村萬斎。悲運の正室となる瀬名(築山殿)を有村架純が、生き別れた母於大の方を松嶋菜々子が演じる。
 撮影には最新装置も導入した。巨大LEDパネルにCGで戦場や草原を映し出し、その前で俳優らを撮影すると、背景がカメラの動きに連動。臨場感あるシーンが撮れるという。

時代考証担当 小和田哲男静岡大名誉教授に聞く
 徳川家康は「命を懸けてくれる家臣が宝」と誇ったとされる。中でも目覚ましい活躍ぶりで、「徳川四天王」と呼ばれた重臣4人について、ドラマの時代考証を務める小和田哲男・静岡大名誉教授(戦国史)に聞いた。
          ◇
 家康の人生は、いわば「倒産寸前の企業の御曹司が、いかに会社を立て直し、一流企業にするか」というサクセスストーリー。その再興を支えた中心メンバーが後に「徳川四天王」と呼ばれた。
 酒井忠次は長老格。年が一回り以上離れた家康にしてみれば、頼れる兄貴分だった。策士でもあり、長篠の戦いでは忠次の作戦が勝利につながった。一方、「えびすくい」という踊りが得意な面も。酒盛りで披露し、武士を和ませたという。
 「猛将」と言えば本多忠勝。50を超える戦に出陣しながら「一度もけがをしたことがない」と息巻いていた。やりをぶんぶん振り回して先陣を切る姿は、敵からも称賛された。家康の戦には欠かせない人物だ。
 榊原康政は頭脳も武功も優れていた。小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉をこき下ろすげき文を配って秀吉の頭に血を上らせ、作戦ミスを誘ったという。家康の三男秀忠に同行し、関ケ原の戦いに遅れた際は「遅れた原因は自分にある」と言い張り、激怒する家康をなだめたそう。信頼も厚かったのだろう。
 井伊直政は若手のエース。家康は、次々と武功を重ねる直政を評価し、武田氏滅亡後、その遺臣の精鋭部隊を直政の直属に配置。関ケ原の戦いで直政は、被弾しながらも軍功をあげた。
 4人はいずれも並外れた才能と厚い忠誠心を持ち、鉄の結束で家康に仕えた。家康にそんな彼らをマネジメントする力があったからこそ、天下統一ができたのだろう。

 おわだ・てつお 1944年、静岡市生まれ。「家訓で読む戦国」など著書多数。

Q&A 徳川家康って、どんな人? 功績は、人柄は 静岡市歴史博物館の学芸員さんに聞きました

徳川家康(浜松市博物館所蔵「徳川十六将図」をトリミング)
徳川家康(浜松市博物館所蔵「徳川十六将図」をトリミング)
 大河ドラマ「どうする家康」(主演・松本潤さん)の放送を契機に、徳川家康への関心が改めて高まっています。功績は、人柄は、ゆかりの地は・・・。静岡市歴史博物館の学芸員・鈴木将典さん(46)に聞きました。

鈴木美晴

Q 幼少時代はどのように過ごしたのですか?

鈴木将典さん

 徳川家康は天文11年(1542年)、三河(現在の愛知県)の領主の家に生まれました。

 少年時代は隣国の大名・今川氏のもとで育てられ、駿府(現在の静岡市)で過ごしました。 「人質」と表現されるケースもありますが、京都との交流が盛んだった駿府で、質の高い文化や教養を身につけたと考えられています。

 

鈴木美晴

Q どこに住んでいたのですか?

鈴木将典さん

 住んでいた場所については、今川館の近く(現在の駿府城公園周辺)、祖母が暮らしたとされる華陽院の近く、静岡浅間神社の近く(いずれも現在の静岡市葵区)など諸説あります。

 永禄3年(1560年)、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に討たれたことをきっかけに、三河で独立しました。

鈴木美晴

Q 青年期・壮年期はどのように過ごしたのですか?

鈴木将典さん

 織田信長と同盟を組み、拠点を三河の岡崎城から浜松城に移しました。元亀3年(1572年)の「三方ケ原の戦い」で武田信玄に大敗しましたが、後に武田氏を滅ぼし、 三河・遠江・駿河と所領を拡大しました。

 信長が自害に追い込まれた「本能寺の変」の後、当時滞在していたとされる堺(現在の大阪府)から「伊賀越え」により、明智軍や地侍からの襲撃の危険を切り抜けて帰還。 甲斐・信濃も領有するに至りました。

鈴木美晴

Q 豊臣秀吉との関係はどう変化しましたか?

鈴木将典さん

 天正12年(1584年)、勢力を拡大する豊臣秀吉と「小牧長久手の戦い」で対決したものの、後に臣従しました。駿府城を築きましたが、秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした後、 江戸に移されました。

 豊臣政権では政治の要職につき、京都などで過ごす時間も長かったようです。秀吉の死後、慶長5年(1600年)に天下分け目の「関ケ原の戦い」で勝利して将軍の座を手に入れ、江戸幕府を開きました。

鈴木美晴

Q 晩年はどのように過ごしたのですか?

鈴木将典さん

 慶長10年(1605年)に将軍職を三男・秀忠に譲り、拡張した駿府城に移りましたが、「大御所」として政治・経済・軍事・外交の実権を握り続けました。

 慶長19年(1614年)からの大坂の陣で豊臣秀頼を滅ぼし、徳川政権の基盤を構築。駿府では趣味を楽しみながら、造船や大砲といった西洋技術の導入、銅活字による出版事業、貨幣制度づくりなどにも取り組みました。朝鮮、スペイン、イギリスなどとの外交でも手腕を発揮しました。

 亡くなったのは元和2年(1616年)。死因はタイの天ぷら(素揚げ説もあり)に当たったという説があります。死後も「東照大権現」として人々にあがめられました。

鈴木美晴

Q どんなことが好きだったのでしょうか?

鈴木将典さん

 多趣味だったと考えられます。例えば、飼いならしたタカを野に放って行う狩り「鷹狩り」。駿府城で過ごした晩年の秋冬には、毎日のように楽しんでいたようです。

 また読書家でもありました。源頼朝を尊敬し、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」や中国の古典を愛読していたとされています。側近が書いたとされる「駿府記」からは、戦国武将の伊達政宗と一緒に囲碁や将棋に興じていたことも伺えます。

鈴木美晴

Q どんな人柄だったと考えられていますか?

鈴木将典さん

 短気な一面もあったようです。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という言葉が知られているように、家康はのんびりしたイメージを持たれがちですが、三方ケ原の戦いや関ケ原の戦いなど、生涯にわたって戦の前線に出ていました。家康が70代の頃の大坂の陣では、重さ20キロもの甲冑を着て出陣したとされています。

 家臣の手紙などに「機嫌の良い時に話しかけると仕事が上手く回る」といった記述が残されていることから、気分屋だった可能性もあります。

鈴木美晴

Q 静岡県内の主なゆかりの地を教えてください

鈴木将典さん

 死後に埋葬された久能山東照宮(静岡市駿河区)、「着初めの腹巻」が残されている静岡浅間神社(静岡市葵区)、幼少期に雪斎から薫陶を受けたとされる「手習いの間」のある臨済寺(静岡市葵区)や清見寺(静岡市清水区)などがよく知られています。

 いずれも当時の姿がそのまま残っているわけではありませんが、浜松城(浜松市中区)や駿府城(静岡市葵区)も整備され、家康の歴史を展示で紹介しています。

答えてくれた人
静岡市歴史博物館の学芸員・鈴木将典(すずき・まさのり)さん。1976年、東京都生まれ。 戦国時代の今川氏や 武田氏、 徳川氏の研究が専門。

静岡市歴史博物館
2023年1月13日にグランドオープンする。
徳川家康の生涯や魅力、若き家康を育てた今川氏の活躍、家康により 整備された 東海道 と駿府城下町 の様子などを 基本展示室で紹介 する。2月26日までは、企画展「徳川家康と駿府」として、家康ゆかりの市内の 品々 も一堂に集めて紹介する。
混雑緩和のため、展示室の観覧はウェブ予約制とする。同博物館の公式サイト「日時指定予約はこちら」のボタンから予約できる。

徳川家康が切り抜けた10戦 概要・結果は

 大河ドラマ「どうする家康」(主演・松本潤さん)で、注目される徳川家康。天下人となるまでに多くの戦を経験しました。家康の生涯を学ぶ上で、押さえておきたい戦・政変をまとめました。

元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図(浜松市博物館所蔵)
元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図(浜松市博物館所蔵)

桶狭間の戦(おけはざまのたたかい)
永禄3年(1560年)、尾張田楽狭間(愛知県)
織田信長が今川義元を奇襲し、敗死させた戦い。徳川家康は今川氏に対する永年の服属関係を断ち、独立して織田信長と同盟し、武田氏と対抗することになった。


三河一向一揆(みかわのいっこういっき)
永禄6年(1563年)、三河国西部(愛知県)
三河国西部で起きた一向一揆。徳川家康家臣の「不入」侵害行為に抗議する蜂起。家康にとって最初の軍事的危機で、一揆鎮圧で一国制圧の基盤を固めることができた。


姉川の戦(あねがわのたたかい)
元亀元年(1570年)、姉川河原(滋賀県)
織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。将軍足利義昭が諸大名と連絡して信長包囲網を策すなど、この頃は信長にとっては困難な時代だったが、姉川の大勝は浅井・朝倉両氏の戦闘力に少なからぬ打撃を与えた。


三方原の戦(三方ケ原の戦・みかたがはらのたたかい)
元亀3年(1572年)、遠江国浜松(浜松市)
武田信玄と徳川家康が三方原台地上で戦い、信玄の圧勝に終わった戦い。家臣たちが家康の身代わりとなって討死し、家康はそれら家臣の犠牲によって浜松城へ逃げ込むことができた。


長篠の戦(ながしののたたかい)
天正3年(1575年)、三河国設楽原(愛知県新城市)
織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を破った合戦。鉄砲が組織的に活用され、織田・徳川・武田の勢力関係が一変した。三方原の戦に敗走した家康は武田氏の前に著しい苦境に陥っていたが、この戦を契機に勢力を回復し、関東方面へ計略の手を伸ばすことが可能になった。


本能寺の変(ほんのうじのへん)
天正10年(1582年)、本能寺(京都府)
明智光秀が織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。
家康は当時、堺にいたが「伊賀越え」で帰国した。


小牧・長久手の戦(こまき・ながくてのたたかい)
天正12年(1584年)、尾張国小牧・長久手など(愛知県など)
羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、織田信雄・徳川家康とが展開した戦い。実質的に機内(京都・大阪など)を支配する羽柴秀吉と、織田政権の継承を期待する織田信雄との対立が表面化し、劣勢な信雄は徳川家康に援助を求めた。信雄と秀吉が講和し、家康も撤兵した。家康の二男・結城秀康が秀吉の養子となった。この戦いによって豊臣政権下における徳川家康の地位が確立した。


小田原征伐(おだわらせいばつ)
天正18年(1590年)、小田原(神奈川県)
全国統一を進める豊臣秀吉の大軍が、関東の雄・北条氏の本城小田原を包囲攻略し、早雲以来5代の覇を誇った北条氏を滅亡させた戦い。徳川家康は、豊臣軍で先頭を切る「先鋒」を務めた。秀吉はこの後、北条氏の旧領(関東)を家康に与えた。


関ケ原の戦(せきがはらのたたかい)
慶長5年(1600年)、美濃関ケ原(岐阜県)
豊臣秀吉の死後の豊臣政権での主導権について、徳川家康らの東軍と、石田三成らの西軍が争った戦闘。東軍が勝利した。関東から機内を結ぶ諸国には、家康の譜代の武将が配置され、江戸幕府の大名配置の原型が完成した。家康の実力は圧倒的なものとなったが、この時点ではまだ豊臣政権の五大老の立場だった。


大坂の陣(おおさかのじん)
冬の陣=慶長19年(1614年)、夏の陣=元和元年(1615年)、大坂
関ケ原の勝利により政治の主導権を獲得し、慶長8年(1603年)には征夷大将軍になった徳川家康は、豊臣秀吉の子・秀頼に臣従を迫ったが、豊臣氏は家康に対抗するようになった。
冬の陣では、秀頼らの身分保証の代わりに、大阪城の軍事的価値を奪って講和した。その後の夏の陣では、秀頼の助命懇願を受け入れず、秀頼と母の淀君の自殺により豊臣氏を滅亡させた。戦後には統制を強化し、幕府の基礎を固めた。

※吉川弘文館の「国史大辞典」を元に作成。

特設ページ「今さら聞けない徳川家康」 込めた思いを編集者2人が話します【音声ニュース〈聞こっと〉特別版】

※2023年1月5日夜、ふるさとメディア「あなたの静岡新聞」のスマートフォンアプリで配信した音声コンテンツ〈聞こっと〉です。〈聞こっと〉はウェブ編集者や記者が注目ニュースや話題のキーワードなどについて語る「声のおたより」です。

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