下駄をはいた女学生 雪の中や修学旅行でも【近現代 学校制服考⑦】

 高等女学生たちが着物に袴[はかま]の姿で通学していたときの履物といえば、朴歯[ほうば]の下駄[げた]が定番であった。鼻緒は赤が多かった。大正7(1918)年に千葉県の東金高等女学校(現・東金高校、以下は高女と略称)に入学した生徒は、「白足袋をはいて朴歯の下駄をはいている人もありました。下駄の歯がすれると下駄屋さんが歯をはって高くしてくれるので、一足がなかなか長持ちいたし、消費時代の現在では考えられません」と振り返る(「東金高校の歴史 別巻(回想篇)」74年)。歯入れ代金は20銭だったという(大正7年のそば1杯が5~6銭)。

(イラスト・梅原陸)
(イラスト・梅原陸)

 同じ千葉県の銚子実科高女(大正12〈23〉年に銚子高女、現・銚子高校)を大正7年に卒業した生徒は「下駄はね、歯の入れられるね、あの、ほうばの下駄で、もう一ヵ月もたたないうちにぺちゃんこになる」と話す(「六十周年記念誌」72年)。
 もっと下駄の減りが早く、冬になると積雪に悩まされたのが長野県の生徒たちであった。須坂実科高女(大正11〈21〉年に須坂高女、現・須坂東高校)では、大正8(19)年まで通学の履物は下駄と定められていた。「遠方から歩いて来る人の下駄の歯は減りに減って、10日もすると歯を取り替えてもらわなければならなかった」「切れにくい皮の鼻緒がはやったりもしました。また、雪が降ると下駄はまことに不便でした。歯の間に雪がたまって団子状になり、すべったりころんだりの連続です。大雪の時にはワラ靴もはきましたが、これは日中に雪が融[と]けでもすると、帰り道はぐしゃぐしゃで、靴の中まで水がしみこんで冷たくて仕方がない」という(「鎌田を仰ぐ六十年」80年)。東北地方には下駄の歯にたまった団子状の雪を電柱にたたいたという経験を持つ女学生が少なくなかった。
 修学旅行のときは、電車以外はどこに行くにも歩いた。昭和5(30)年に長野県の諏訪第二高女(昭和11〈36〉年に岡谷高女、現・諏訪二葉高校)に入学した生徒は、関西方面に修学旅行した。木綿の着物に袴を穿[は]き、白い肩掛けカバンで、下駄を履いた。彼女は「一日の行程の半分以上は、足で歩いたものですから、履いている下駄の歯のへる事は大変のものでして、宿の前に下駄の歯入れ屋さんがいて、ちゃんと歯入れをしてくれました。旅行中なんと、二回から三回入れてもらったものです」と回想する(「創立六十周年記念誌」72年)。
 当時は高女の生徒はもとより、中学校の生徒たちも下駄を履いていた。したがって、修学旅行生が宿泊する旅館の近くには歯入れ屋が構えており、生徒たちの歯を次々と交換していた様子が目に浮かぶ。そのことがうかがえる貴重な証言である。
 高等女学校でセーラー服に革靴が取り入れられると、次第に下駄履きは少なくなる。戦時中に革靴の入手が困難になると一時的に下駄は復活した。昭和30年代に高度経済成長の中で下駄履き通学は絶滅し、下駄の歯を替える店も姿を消してしまった。
 (刑部芳則・日本大学商学部教授)

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