家康の正室 築山殿ってどんな人? 戦国の世に翻弄された悲劇の美女 今川に出自、「瀬名姫」とも

築山殿(西来院の資料より)
築山殿(西来院の資料より)

築山殿の生涯  誕生年は不明。父は今川家重臣・関口氏純、母は今川義元の妹という説がある。今川館付近(現在の静岡市葵区の駿府城公園の坤櫓(ひつじさるやぐら)付近)に住んでいたとみられ、美しい女性だったと伝わる。
 今川の元で育てられていた松平元康(徳川家康)の正室となり、長男・信康と長女・亀姫をもうけた。家康が独立して岡崎に移った後も駿府に留め置かれたが、今川方との人質交換で岡崎に移った。岡崎居住時、築山の近くに住んだため「築山殿」と呼ばれた。
 当時敵対していた武田方との内通を織田信長に疑われ、家康の命を受けた家臣により佐鳴湖畔(現・浜松市)で暗殺された。信長の娘で、信康の妻・徳姫の密告があったという説もある。
 今川一族が住んでいた場所の地名にちなみ、瀬名姫とも呼ばれる。現在も静岡市葵区に「瀬名」「瀬名川」「瀬名中央」などの地名が残っている。(静岡市歴史博物館への取材を基に作成)
 ▶関連リンク Q&A 徳川家康の正室/側室って何人いたの? 築山殿が眠る 西来院(浜松市中区広沢) photo01 西来院
 正長元年(1428年)開創とされる曹洞宗の寺院。天正7年(1579年)に殺害された築山殿は、家康の命で西来院に葬られた。家康はその死を悲しみ、菩提を弔ったとされる。主君の命ながらも、築山殿の首を落とした家臣・野中三五郎重政は悔恨の情にさいなまれ、水戸に走ったと言われている。

 築山殿の霊廟(月窟廟・がっくつびょう)のほか、家康の異父弟で幼くして徳川の人質として駿府に送り込まれた松平源三郎康俊の墓もある。

 昭和20年(1945年)に太平洋戦争の米軍空襲により伽藍堂や多くの宝物が焼失し、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート建築の本堂が再建された。藤の名所として知られ、毎年4月下旬~5月上旬に見頃を迎える。 境内には藤の花を詠んだ俳人・種田山頭火の句碑も立っている。(西来院の資料を基に作成)
血を洗った太刀洗の池(たちあらいのいけ)(浜松市中区) photo01 「移設前の碑」(浜松市提供)※2024年1月(予定)まで工事のため立ち入りできない
 岡崎城から浜松城へ向かうため佐鳴湖を船で渡った際、築山殿は野中ら家康の家臣により殺害された。その刀の血を洗ったのが太刀洗の池とされる。太刀洗の池は現在は埋め立てられ、浜松医療センター敷地内に碑が残るのみとなっている(2024年1月まで工事予定で、立ち入り禁止)。(浜松市への取材を基に作成)

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