
分かりやすい勧善懲悪や、小気味いいアクション、突如差し込まれる群舞ー。「私たちが光と想うすべて」には、インド映画に「ありがち」(もちろん、いい意味で)な要素は、一切入っていない。
代わりにあるのは、大都市特有の鉄道や車のノイズ、そこで働く女性たちのリアルな生活ぶり、都市と地方の落差などだ。カパーリヤー監督はドキュメンタリー映画出身で、フィクション長編は初という。何となく、虚実が境目なく感じられるのはそのせいだろうか。
劇場で買ったパンフレットに社会学者の上野千鶴子さんが寄稿していて驚いたが、タイトルに「映画大国インドのニュー・シネマ」とあった。なるほど。確かにそんな捉え方もできるかもしれない。特にすっきりカタが付くエンディングになっていないあたりが。

封筒入りの美麗パンフレット
ムンバイで看護師として働くプラバ(カニ・クスルティ)は、親の指名で結婚した夫がいるが、ドイツに出稼ぎに行ったまま音信不通が続く。プラバの年下のルームメイトのアヌ(ディヴィヤ・プラバ)は、明るく奔放な性格だがイスラム教徒の恋人の存在を親に打ち明けられずにいる。プラバとアヌが働く医療機関の厨房のベテラン職員パルヴァティ(チャヤ・カダム)は、土地開発のあおりを食らって長年住んだムンバイの家を追い出される。物語はこの3人の女性を軸に進むが、特にスペクタクルがあるわけではないし、謎解きのドキドキもない。インドの都市生活のままならなさが、ポーンと投げ出されているかのようだ。
ただ、日本の劇場でこの作品を見ていると、「生活そのもの」の違いが存分に伝わる。そして、ちょっとした瞬間に、「自分の生活」と「彼女たちの生活」をつなぐトンネルのようなものができる。それが楽しい。
例えば、送り主不明の贈り物が届いて、それが高級炊飯器だったとき。例えば、旅行先に恋人がやってきて、内緒であいびきするとき。例えば、好意を寄せている相手にそれを伝えるすべが見つからなくて、自分が書いた詩を送ってしまうとき。そこに生まれている感情は、確かに自分の中にもあるものだ。この作品は実のところ、国籍を問わない「あるある」がそこかしこにちりばめられているのだ。
ラストシーンがとにかく美しい。夜空に星。日本の「海の家」のような作りの、砂浜に建ったバー。ピンクの電飾。店を任されているらしい男の子の奇妙なダンス。その前に集う男女4人。カメラが少しずつ引いていき「ジ・エンド」。
ここまでのあれやこれやは全て、この場面に奉仕するために撮られていたのではないか。大切なものを持ち寄ったかのような、でもとことん静かな雰囲気にグッとくる。
(は)
<DATA>※県内の上映館。8月22日時点
金星シネマ(伊東市、9月17日~)
静岡シネ・ギャラリー(静岡市葵区)
シネマイーラ(浜松市中央区、9月19日~)