
仕事の第一線を退き、なかなかできなかった旅で長年の疲れをいやす悠々自適な暮らし-。そんなシニアライフを描く人は多いと思います。しかし、気になるデータがあります。政府観光庁が公表した令和7(2025)年の観光白書。観光目的の宿泊旅行の回数を聞いたところ、年代別で70代以上は「1回も行っていない」との回答が約7割に上りました。注目はその理由です。
「観光目的の国内宿泊旅行をしなかった理由」のデータで、70~80代の3位は「混雑する時期に旅行をしたくない」、第2位は「家計の制約がある」でした。ダントツの1位は、他の年代では最下位の「自分の健康上の理由」でした(図表1)。
(図表1)観光目的の国内宿泊旅行をしなかった理由 <年代別、上位5項目:2025年観光白書>

70代で約30%、80代以上では60%近くに上ります。旅行は心と体をリフレッシュさせる効果が期待できますが、70代以上は健康への不安が宿泊旅行を妨げる最大の要因になっているのです。これは20~60代で「仕事などで休暇が取れない」「家計の制約がある」が主因であるのと異なります。
アラ還の私はこのデータに納得感があります。過日、妻と車で神奈川県内の古社寺を訪ねたときのこと。日帰りのお礼参りですが、二人とも前日から気に掛けたのは健康状態。翌日に疲れが残らないかを含め、安全安心に帰ってこられる体調管理が最優先でした。酷暑は暑いことだけが問題でなく、気力や体力が弱ると持病が顔を出したり、弱った足腰が悲鳴を上げたりする苦渋の事情があるです。
コロナ禍から回復途上
コロナ禍で落ち込んだ国内旅行はいまだ回復の途上です。観光白書には年代別の「国内宿泊旅行経験率」が掲載されています。20代以下ではコロナ禍前(2019年)を上回る64.0%まで回復しましたが、それ以外の年代は19年実績を下回ったまま。特に70代以上はコロナ禍前から10ポイントほど低い状況です(図表2)。(図表2)国内宿泊旅行経験率の推移 <年代別:2025年観光白書>

ただ、白書は旅行業発展の未来像も提示しています。日本生産性本部の調査データ(2023年)を引用し、「仕事よりも余暇の中に生きがいを求める」とした人が増加傾向で、「仕事は要領よく片付けて、できるだけ余暇を楽しむ」との回答を含めて6割超。この他のデータも考慮し、白書は「大半の国民がこれまで以上に旅行をしたいと考えている」「70代については潜在的な旅行の需要が大きい」と指摘しました。
好奇心や冒険心
さて、こうした問題を考えるきっかけになったのは静岡県立大経営情報イノベーション研究科で聴講した社会人向け公開講座「観光情報分析論」です。観光振興で情報技術が果たす機能や利活用策を学ぶ講義。院生は茶産業を生かしたツーリズムを研究していました。授業の中で教官の大久保あかね教授(観光学)は旅行者の特性をアロセントリックス(allocentrics=他者中心型)、サイコセントリックス(psychocentrics=心理中心型)で分類する研究手法を指導してくださいました。観光地の盛衰に関する研究などで用いられ、アロセントリックスは好奇心や冒険心が旺盛で珍しい体験を好む観光客、サイコセントリックスはパッケージツアーなど評価が定まったツアーを志向する観光客を表します。観光地はアロセントリックスの人々により開拓され、飽和状態に近づくとサイコセントリックの観光客に居心地のいい観光地になっていくそうです。
70代以上で宿泊旅行がゼロの人が約7割と紹介しましたが、観光白書は10年前と比較して「旅行しなかった層(0回)」が増えるのと並行して、「5回以上」旅行をした層も増加し、国民の旅行実績は二極化していると分析しています。過去に訪れた目的地を再訪したいと答えた旅行者は約6割に上り、「お気に入りの場所」「違う季節」「行きつけの飲食店」などがキーワード。二極化の打破には冒険心をくすぐる仕掛けと、再訪者にも満足していただけるサービスの両方が不可欠なのです。
茶産業の可能性
ならではの食を体験するガストロノミーツーリズムで、静岡県の伝統産業であり特産品である緑茶をコンテンツにしたツアーが注目を集めています。緑茶を味わうことのみならず、茶の生産活動や喫茶を巡る伝統文化の体験などツアーを造成するコンテンツは幅広く、冒険心と安定性の両方を満たす仕掛けが期待できるからです。魅力あるツアーは、そのコンテンツの工夫だけでは不十分で、宿泊旅行を決断するに当たってのさまざまなハードルを下げる取り組みと掛け合わせてこそ。バリアフリーの考え方はユニバーサルデザインの政策へと進化し、老若男女に優しい社会の構築につながりました。同様に、健康不安を感じ、旅行弱者である高齢者に支援の行き届いた観光政策の推進は観光業全体のサービス向上に直結すると感じます。
中島 忠男(なかじま・ただお)=SBSプロモーション常務
1962年焼津市生まれ。86年静岡新聞入社。社会部で司法や教育委員会を取材。共同通信社に出向し文部科学省、総務省を担当。清水支局長を務め政治部へ。川勝平太知事を初当選時から取材し、政治部長、ニュースセンター長、論説委員長を経て定年を迎え、2023年6月から現職。