徳川家康 嫡男と正妻を処断「松平信康事件」なぜ起きた? 謎に包まれた信康と築山殿の死 静岡大・本多名誉教授に聞く

 徳川家康の嫡男・信康と正妻・築山殿が相次いで命を落とした「松平信康事件」。家康の生涯の痛恨事だが、史料が乏しく現在も謎に包まれている。家康研究で知られる静岡大の本多隆成名誉教授(80)に事件を巡る言説や背景をインタビューし、信康と築山殿の静岡県内ゆかりの地も取材した。「信康事件」はなぜ起きたのか。

本多隆成氏
本多隆成氏

 

 <メモ>松平信康事件
 天正7(1579)年9月15日に徳川家康の嫡男・松平信康が、現在の浜松市天竜区にあった二俣城で自刃させられた事件。直前の8月29日には、家康の正妻で信康の生母の築山殿が富塚(現同市中区)で絶命した。事件に関する重要な史料の家臣・松平家忠による「家忠日記」にも、信康と築山殿の死について当日の記述はなく、現在まで真相は明らかになっていない。
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 根強い通説 信長の命令で処断

 通説とされてきたのは、家康家臣・大久保忠教の「三河物語」の記述だ。
 信康正妻・徳姫が、父親の織田信長に手紙を送り、信康と築山殿の不行跡12カ条を訴えた。信長がこの条書を持参した家康重臣・酒井忠次に真偽をただしたところ、10カ条まで認めたため残りは聞かず「老臣が全て承知しているならば疑いない。信康に腹を切らせるよう家康に申せ」と言った。家康は信長の命令に背くことができず、やむなく信康を処断した。「三河物語」にはこのような内容が書かれている。
 しかしこれは、忠教が家康と信康をかばおうとする気持ちが強く出たもので、他の史料との食い違いもあり、真相でないと見る研究者が増えている。ただ一般にはなお根強く残っている。


 現在の主流説 家康自身が決断

 現在は、信康の死は信長の命令ではなかったとみられているという。
 家康孫・松平忠明が著者との説があり比較的信ぴょう性が高い「当代記」が示す通り、家康自身の決断だったとの見方が主流だ。
 家康は天正7(1579)年7月、信長の元へ忠次を使者として送った。信康は日頃から家康の命令に背き、信長をも軽んじ、家臣以下に非道なことを行っていると報告。信長はそれほど父や臣下に見限られているようではやむを得ない、「家康存分次第(家康の思う通りにしろ)」と返事をした、という趣旨だ。
 家康が信康の廃嫡・処断について、信長に事前に報告し、了解を求めたと考えられる。


 近年提唱の説 外交路線の対立

 背景に、家康と信康の間に外交路線の対立があったとする説も近年提唱されている。
 家康を中心とした対武田主戦派である浜松の家臣団と、武田と手を結ぼうとする岡崎の家臣団が対立していたとする見方だ。家康が信玄に大敗した「三方ケ原の戦い」や勝頼の高天神城攻略により、この時期の徳川領国は危機的な状況にあった。織田と武田のどちらと組むか、家臣の間で意見が割れていたと見るのである。
 象徴的なのは、天正3(75)年の「大岡弥四郎事件」。岡崎の信康派家臣が、武田勢を岡崎城に引き入れて信康を擁する新徳川家の樹立を画策したものの、密告により失敗、首謀者とされた岡崎町奉行・大岡らが処刑された。一種のクーデターだ。こうした対立が信康事件の際に再燃したという見方がある。
 本多名誉教授自身は、外交路線の対立説に否定的な立場だ。
 事件の伏線になり得ず、ましてや直接の原因とは言えないのではないか。信康事件の時点では、浜松の家康家臣団に対抗できるような岡崎の信康家臣団の存在など、あり得なかったはずだ。
 当時深溝(現愛知県幸田町)にいた家臣・松平家忠の「家忠日記」によると、信康事件前年の天正6(78)年、家康や忠次は三河の家臣らに対し、岡崎城下に詰める必要がないと伝えている。家康が大岡弥四郎事件を苦い教訓に、信康と三河の家臣の関係を断ち切ろうとした様子がうかがえる。
 また信康事件の際には、連座して処罰された主な家臣も見られなかった。


 本多氏の説 粗暴、不和、謀反の疑い

 本多名誉教授は、事件の根本に複数の原因があったと考える。
 最大の原因は、信康の資質と徳姫との不和だろう。踊りが下手な者を射殺したり、タカ狩りで出会った僧侶をウマにつないで引きずり殺したり。信康は武道に優れる半面、粗暴だったと諸史料に記されている。
 徳姫との間に生まれた子どもがいずれも女子だったため築山殿と信康が落胆、徳姫との関係が悪化したとも伝わる。家康は信康事件直前の6月、「中なをし」のため岡崎を訪れたが、不調に終わったようだ。
 家康が、廃嫡ではなく死を選択した理由については築山殿に着目する。
 先の2点だけでは、死に至らしめた理由としては弱い。そこで大岡弥四郎事件以来、築山殿周辺にあった謀反の疑いに注目している。信長家臣・太田牛一の「安土日記」には、信康に「逆心の雑説」、つまり武田方に通ずる謀反のうわさがあったことに触れている。
 また「家忠日記」には信康事件の前年の天正6(78)年2月4日、家忠の元へ築山殿から手紙が届き、同月10日には信康が来訪したとある。目的は不明だが、これらの動きは当時の社会通念では異例。三河武士への多数派工作と見なされ、家康の不信感を招いた可能性がある。
 女性である築山殿も死に至った。
 著者不明の「松平記」では「御母築山殿も日比の御悪逆有しとて、同生害におよふ」と記されている。築山殿が大岡弥四郎事件以来の謀反の元凶とみなされ、信康にも連動する動きがあったのではないか。
 ただ、最近は築山殿は殺害されたのでなく、自害だったとの見方も出ている。信康が自刃するまで、各地を転々とした理由も分からない。家康が天下人となり「神君神話」が広がる中で、人生の痛恨事である信康事件を隠蔽(いんぺい)する配慮が働いたと見られ、実態はいまだに明らかでない。

 
ほんだ・たかしげ 1942年、大阪市生まれ。73年、静岡大人文学部に赴任。2008年に定年退職し、現在は同大名誉教授・文学博士。専門は戦国史・近世史。家康関係の著書に「定本 徳川家康」「徳川家康と関ケ原の戦い」「徳川家康と武田氏」「徳川家康の決断」がある。

松平信康 非業の死遂げた嫡男
  photo01 信康像(勝蓮寺蔵をトリミング)  

 永禄2(1559)年、家康と築山殿の嫡男として駿府で生まれた信康(幼名・竹千代)。「桶狭間の戦い」を機に家康が三河で独立したため一時は駿府で今川の人質となったが、人質交換で岡崎へ移った。信長の娘・徳姫(五徳)と結婚、元服して松平三郎信康と名乗り岡崎城主になった。嫡男として戦場で活躍するも、二俣城で非業の死を遂げた。
 浜松市天竜区二俣町の清瀧寺に眠る。家康が信康を弔うため建立し、同地の滝にちなんで命名した。滝は枯れたことがないとされ、現在も見学できる。地元では“信康の涙”とも表現される。墓「信康廟(びょう)」(11月3日の天竜産業観光まつり時に一般公開)があるほか、家康奉納と伝わる聖観世音菩薩(ぼさつ)も残る。
 天下分け目の「関ケ原の戦い」の時に信康不在を嘆いた―など、家康が嫡男の死を後年まで悔やんだとする逸話が諸史料に残る。

photo01 清瀧寺(浜松市天竜区二俣町)
築山殿 乱世に翻弄された正妻
  photo01 築山殿像(西来院蔵をトリミング)  

 築山殿の生年は不明。父は今川家重臣・関口氏純、母は今川義元の妹という説がある。静岡市葵区瀬名地区の郷土資料「長尾川流域のふるさと昔ばなし」には美人の母親に似ていて、生まれた瀬名にちなみ「お瀬名」「瀬名姫」などと呼ばれていたと記されている。
 駿府の今川家で育てられていた松平元信(家康)の正妻となり、信康と亀姫をもうけた。子どもと共に岡崎へ移り、築山近くに住んだため「築山殿」と呼ばれた。家康の浜松移転後も岡崎に残り、佐鳴湖畔で悲劇的な最期を迎えた。
 浜松市中区広沢の西来院に葬られた。同院資料によると、家康はその死を悲しみ、命令により築山殿の首を落とした家康家臣・野中重政も悔恨の念から水戸に走ったと伝わる。
 幕府の史料「徳川実紀」には、家康は重政の報告に対して「女の事なれば計らひ方もあるべきを」と語り、命を助けなかったことを責めたとする記述も残る。

photo01 西来院(浜松市中区広沢)

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