書き換わる教科書 消えつつある「登呂遺跡」の記載 研究進み、弥生観多様に【至宝 登呂遺跡発見80年①】

 「わぁ、煙だ」「火も付いた」。昨年12月中旬、静岡市駿河区の登呂遺跡。社会科の授業で訪れた御殿場市立高根小の5年生50人が、貫頭衣姿の指導員の手ほどきを受けながら火おこしを体験した。摩擦熱で煙が上がり、実際に炎が見えると大喜び。「弥生人は頭を使いながら生活していたんだって感じた」。5年生の横畠アヤさん(10)は目を輝かせた。

火おこし体験をする御殿場市立高根小の子どもたち=昨年12月、静岡市駿河区の登呂遺跡
火おこし体験をする御殿場市立高根小の子どもたち=昨年12月、静岡市駿河区の登呂遺跡

 静岡市立登呂博物館によると、登呂遺跡には毎年、県内を中心に1万人以上の小中学生が学校行事で訪れる。
 弥生時代の水田跡が見つかり、稲作文化が2千年前にあったことを日本で初めて裏付けた登呂遺跡。しかし近年、子どもたちが授業で学ぶ機会は減っている。かつてどの教科書にもあった登呂遺跡の記載は消えつつある。
 現在使われている社会科の教科書の本文に登呂遺跡に関する記載があるかどうか教科書会社に聞いたところ、小学校は3社のうち、最大手の東京書籍(東京)1社が「ない」と回答した。中学校で掲載がないとしたのは、同社や山川出版(同)など8社のうち、5社に上った。
 県内では小学校約490校中261校(53%)、中学校約250校中98校(38%)で登呂遺跡の記載がない教科書を使用する。「研究が進み、多様な弥生観が出てきた」。登呂遺跡の調査研究に長年携わった市観光交流文化局次長の岡村渉さん(60)は背景を語る。
 県内でも多くの小中学校が使っている東京書籍の教科書は、佐賀県の吉野ケ里遺跡や福岡県の板付遺跡を取り上げる。吉野ケ里は1980年代に本格的な発掘調査が行われ、集落を守る環濠(かんごう)や剣が刺さった人骨が出土した。この時代、既に争いや階級社会が存在していたことが明らかになった。板付から見つかった水田跡は国内最古とされる。
 東京書籍の広報担当者は編集方針について「学習指導要領が『農耕の始まり』や『むらからくにへの変化』を理解するよう求めている点を考慮した」と説明する。同社は2000年版の小学校の教科書まで登呂遺跡を掲載し、その後見送った。
 教科書を書き換える歴史的な発見が各地で起きる中、登呂遺跡の価値をどう伝えるか。静岡市立城北小校長で、県教育研究会社会科教育研究部長の太田貴雄さん(59)は「子どもたちに歴史に興味や関心を持ってもらうことが大事で、登呂遺跡は教材として十分活用できる。そうした視点を持って登呂遺跡側も積極的な情報発信をしてほしい」と求める。
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 太平洋戦争中の1943(昭和18)年に登呂遺跡が発見されて、80年を迎えた。弥生時代の農耕の姿が初めて明らかになっただけでなく、戦後の本格的な発掘調査で、国民が敗戦で失った自信を取り戻すきっかけにもなった。歴史的価値の高さから52年には国指定の特別史跡に。一方、弥生時代の研究は進み、登呂遺跡だけで同時代は語れなくなった。登呂遺跡の価値や課題は何か―。見直し、継承の在り方を探る。

 <メモ>登呂遺跡が指定を受けている国の特別史跡は、文化財保護法に基づき「学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」と規定されている。特別史跡に指定されている弥生時代の遺跡は登呂のほか、佐賀県の吉野ケ里(よしのがり)遺跡、長崎県の原の辻(はらのつじ)遺跡の3カ所。文化庁によると、全国で重要な遺跡として1881件が史跡に指定され、うち特別史跡は63件。割合にして3.3%という“狭き門”だ。

 

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