徳川四天王ってどんな人?功績は? 酒井忠次/本多忠勝/榊原康政/井伊直政【徳川十六神将①】
大河ドラマ「どうする家康」(主演・松本潤さん)の放送を契機に、徳川家康を支えた家臣団にも注目が集まっています。多くの家臣の中でも卓越した武将として知られるのが、「徳川四天王」と呼ばれる酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政。4人はどんな人物だったのか。2023年1月にグランドオープンする静岡市歴史博物館の学芸員・鈴木将典さん(46)に聞きました。
⇒徳川十六将ってどんな人?平岩親吉/鳥居元忠/大久保忠世…四天王だけじゃない重臣達【徳川十六神将②】
四天王筆頭 酒井忠次
さかい・ただつぐ(1527~1596年)
鈴木美晴
鈴木将典さん
鈴木美晴
鈴木将典さん
織田・徳川軍と武田勝頼軍の戦い「長篠の戦い」で、大勝の起因になったとされる鳶ケ巣山砦(とびがすやまとりで)の奇襲作戦を考案・実施した功績も有名です。1596年、徳川家康が天下人となる前に亡くなりました。
静岡県内には、家康が武田信玄に大敗した「三方ケ原の戦い」の際の「酒井の太鼓」伝承が残っています。家康が浜松城へ退却した際、敵が城門近くまで迫っていました。忠次がやぐら門の警鼓を打ち鳴らしたところ、武田方は何か策略があると疑って軍を引いたため、城を守りきることができたとされています。
ほんだ・ただかつ(1548~1610年)
鈴木美晴
鈴木将典さん
家康の重臣「旗本」で、家康が青壮年期に浜松や駿府を居城としていた時は、城下に住んでいたと考えられます。
鈴木美晴
鈴木将典さん
「関ケ原の戦い」にも出陣し、東軍方の大名を束ねる役目を担うなど勝利に貢献しましたが、1610年に死去しました。
磐田市には、三方ケ原の戦いの前に起きた「一言坂の戦い」の戦跡が残っています。武田軍からの撤退戦で奮闘し、武田方から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(からのかしら・ヤクの毛を束ねた兜=かぶと=)に本多平八(忠勝の通称)」と評されたとされています。
さかきばら・やすまさ(1548~1606年)
鈴木美晴
鈴木将典さん
康政も家康の重臣「旗本」で、家康が青壮年期に浜松や駿府を居城としていた時は、城下に住んでいたと考えられます。
鈴木美晴
鈴木将典さん
本多忠勝とともに家康の側近として活躍し、関ケ原の戦いでは秀忠を補佐しました。1606年、死去しました。
三方ケ原の戦いをはじめ、遠江や駿河での戦闘では先鋒(せんぽう)を務めることも多かったといわれています。1573年、遠州森郷(現森町)で武田軍を破ったことでも知られています。
いい・なおまさ(1561~1602年)
鈴木美晴
鈴木将典さん
武田家の家臣・山県昌景の赤色の武装隊「赤備え」を譲り受けて数々の戦で武功をあげ、その勇猛果敢な姿から直政も「赤鬼」と恐れられました。
鈴木美晴
鈴木将典さん
本多忠勝とともに東軍方の大名を束ねる役目を担うなど勝利に貢献しましたが、1602年に死去しました。関ケ原の戦いで島津軍の敵中突破で受けた傷によるとされています。浜松市に井伊家の菩提寺・龍潭寺があります。
史書「徳川実紀」では、直政の容貌を「いやしからず只者ならざる面ざし」と記述されていて、家柄が良く、美男子だったと伝わっています。
徳川三傑
鈴木美晴
鈴木将典さん
酒井忠次が家康の前半生を支えたのに対し、3人は家康の後半生を支えた武将であったために、特に「三傑」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
答えてくれた人
静岡市歴史博物館の学芸員・鈴木将典(すずき・まさのり)さん。1976年、東京都生まれ。 戦国時代の今川氏や 武田氏、 徳川氏の研究が専門。
静岡市歴史博物館
2023年1月13日グランドオープン。徳川家康の生涯や魅力、若き家康を育てた今川氏の活躍、家康により整備された東海道と駿府城下町の様子などを紹介する。2月26日まで、企画展「徳川家康と駿府」として、家康ゆかりの品々を一堂に集めて紹介する。 混雑緩和のため、展示室の観覧はウェブ予約制。同博物館公式サイト「日時指定予約はこちら」のボタンから予約できる。
家康がよく分かる 正室・側室/人柄/戦い
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