
その背びれの先端近く、静岡県から東に外れて直線距離で5キロあまりのところに、奈良田(ならだ)という集落がある。山梨県早川町に属する。5キロとはいえ、そこには車が通れるような道などなく、登山の上級者が下っていっても4時間かかる高低差2000Mのルートがあるだけだ。
奈良田は内陸の村だが、“言語の島”と言われる。隣り合う地域と地続きと思えないほど言葉が違うから“島”と呼ぶ。その“島”で地元の人が奈良田方言を話し、言語学者が解説する勉強会があると聞いた。富士山も六合目までしか登ったことがない私は、中部横断道を車で北上して行く。かつて秘境と言われた奈良田も、今や下部温泉早川インターから1時間足らず。静岡からも意外と近いのに、今回が初訪問だった。
方言を研究する人の間で奈良田を知らない者はいないだろう。私も方言に関心があり、奈良田ことばの特異性については、本で読み、いくらか予備知識はあったが、土地のお年寄りの話しぶりを初めて聴いて、大げさではなくぶったまげた。この日披露された昔話「づくなし」は、「奈良田 いずこに」でインターネット検索すれば出てくるから、皆さんもぜひ聴いてほしい。
山梨県全体としては、言葉のアクセントは共通語に準ずる。ところが、奈良田のアクセントは、ことごとくそれと違うのである。アクセントとは単語ごとに決まっている音の高低のことだ。「づくなし」の冒頭、「昔」という単語が「む\かし」と発音された。我々静岡県民が「ぬ\まづ(沼津)」や「ま\つげ(睫毛)」という場合と同じように最初の音が高い。共通語では(静岡県でも大体は。山梨県でも奈良田以外は)、「昔」は「む/かし」と、「む」より「かし」を高く発音する。「み/しま(三島)」や「さ/かな(魚)」と同じ音の上がり方だ。「飯を食う」は、共通語では「め/し\を く\う」で、「し、く」が高いが、奈良田ことばだと「め\し/を く/う」と「め、を、う」が高い。普段聞き慣れているアクセントとはあべこべ、裏返しのようで、とても奇異に感じる。
二つ目の驚きは、奈良田ことばで昔話を披露してくれた90代の深沢實(ふかさわ・みのる)さんが、私のようなよそ者と話すとき、山梨県の一般的なアクセントに見事に切り替えることだ。いわばバイリンガルですねと讃えたら「学校へ行ったら甲州弁。家へ帰ったら奈良田ことばで話していたからね」と、そんなことは余裕でできる、何が不思議かと言わんばかりに返された。
奈良田と同じように、静岡市の井川地区も“言語の島”と言われ、それより南の地域とは、明らかに聞いた感じが異なるアクセントを持っている。ところが奈良田と違い、井川の人は、静岡市の平野部の言葉と切り替えながら、地元言葉を話すのは、かなり苦手にしているように思える。この違いはなんだろう?
今回の勉強会を主宰する言語学者、東京大学大学院人文社会系研究科の小西いずみ准教授に聞くと、「奈良田ことばは、甲州弁のアクセントと対応関係があるから」切り替えや併用が容易なのだそうだ。裏返しの印象で奇妙に聞こえても、そこには、甲州弁でこのアクセントパターンだから、奈良田では、このように変換されるという法則があるという。
対して、井川は各単語に決まった音の高低がない「無型アクセント」が最大の特色である。パターンをそもそも持っていないアクセント体系だから、静岡市平野部の言葉が井川でどう変わるかというような法則も成り立たない。だから、井川の人にとって、静岡市平野部のアクセントを獲得するのは簡単ではないと考えられる。
奈良田も井川も南アルプスの麓に位置し、それより奥に集落はなく、戦後もしばらくは焼畑農業を続けてきたのも同じで、語彙は共通のものも多いから、「奈良田では、井川に似た言葉が話されているんだろうな」という、私の漠然とした想像は完全に覆された。
文:SBSアナウンサー・野路毅彦