
―浜松商を率いた1990年以来、35年ぶりの夏の甲子園はどうでしたか。
「(アルプス席の拡張、増席が行われた改装工事後は初めての夏となり)2009年春の(掛川西を率いた)選抜の時は感じなかったんですが、今回は(ベンチから)アルプスから応援が聞こえるんだと感じましたね。振り向けばアルプスが見えるんだなと。うちの校歌は賛美歌なので(甲子園で)歌ったらどうなるのかなと思ったけれど(1回勝って)歌えて良かったですね。

(茨城・明秀学園日立との)1回戦の行われた9日は少し涼しかったんですが、大会の熱中症対策は厳しかったですね。第2試合だったんですが、午後1時半過ぎたら継続試合になるということで、監督会議でも困惑の声が出てました。校長として、学校には『もし継続試合になったら応援には来なくていい』と伝えておきました」
―1回戦は勝利、2回戦(福岡・西日本短大府戦)は惜敗でした。
「2回戦前にもっとバント練習やらせておけば良かった。今年の甲子園を見ていたら、バントを失敗したチームが負けているんですよね。打ちに行けばゲッツーという試合が多くて。あの試合で勝てないのがまだまだ、うちの弱いところで、歴史のないところかな」

―2年生エース高部陸投手が一気に注目を集めましたね。
「あれだけ注目されていてもしっかり投げてくれた。高部がまだ1年生のころ、豊川高(愛知)との練習試合で、相手校の選手を見に来た(プロの)スカウトが高部を見て『何者ですか?これから追いかけさせてください』と言われたのが(プロに注目された)最初。もともとうちに来る時は大学に行ってから上に挑戦したい、という話でした。まだ体がきゃしゃですから。(プロ挑戦は)大学を経てかなと思いますが(進路選択は)本人次第ですね」

―改めて聖隷として初の甲子園出場をどう受け止めますか。
「素直に行けて良かったです。コロナで(代替大会で優勝して)行けなかったのは仕方ない。ただ、(東海大会で準優勝しながら2022年の)選抜に行けなかった。あれがあって今回がある。静岡大会が終わって、学校にかかってきた電話の半分以上が『応援してました』『出られて良かったですね』という電話。全国から、涙ながらに電話してくる人がいて。
あの時、選抜は確実だと(自分が)GOサインまで出して、行けずに迷惑をかけてしまった。タオルつくったり帽子つくったりして。タオルは全部焼却処分。帽子は『選抜』の刺しゅう(ワッペン)を手作業で全部外して、再利用しました。教え子がつくってくれた『祝・甲子園出場』の横断幕は今回、ようやく飾ることができました。あの経験があっての甲子園だったから。やっと聖隷出てきたね、と喜んでくれる人がいた」

―静岡大会は第1シード(春の県優勝校)の優勝が難しいとされていますが。
「今年は気負ってなかったですね。周りは第1シードだからと期待しましたが、第1シードだからこそ難しいと思っていました。そんなに簡単に行けるわけない、と思ってたんですよね。準優勝だった去年はまだ甲子園の準備ができていなかった。それでも勝つ時はあるけれど、今年は準備した雰囲気でしたね。
去年の秋は高部が抑えても(打線が)チャンスに打てなかった。(昨秋の東海大会準々決勝の)至学館との試合が象徴的。相手に先行され、相手ピッチャーのコントロールがいいと打てない。チャンスになるほど硬くなっていた。
春に(県大会で)優勝できたことで追いかけられる、警戒される立場になり、相手どうこうじゃなく自分たちがやるべきことをやろうということになった。失敗が怖いというのは選手にどうしてもつきまとう。『自分のミスで負けたらどうしよう』とか。そういうのは捨てなさいと。そうは言ってもなかなかできないんですが。(静岡大会)初戦はものすごく緊張していて、それが終わったら今度は(気が)抜けてしまって。『とにかく自分たちのパフォーマンスを出すことに集中しなさい』と言いましたね」

―粘り強い、いいチームになりましたね。
「聖隷を応援している人は、何となく最後には勝つと思っているんじゃないですか。諦めるなんて思ってないでしょ。ピッチャーが安定して野手が崩れなかったらゲームに勝つんです。大物バッターがいて、当たれば点は取れるけど、そうじゃなければ点が取れないチームならあっさり負ける。誰が出ようがバント、誰が出ようがこうです、という風になっている方がいい。打つことほど期待しないものはないんです。打ってくれたら大もうけです」
―静岡県では公立に比べて私立は地元の選手が集まりにくいですか。
「県内では私立は公立の受け皿というイメージがあったけれど、今はだいぶ変わって8~9割が単願です。県外の選手は憧れを持って(聖隷に)来てくれます。就学支援金制度があって、自分が校長になってから1回も定員割れはないです。8月のオープンスクールの参加者も1000人を超えました。
選手も地元で取れるならとりたいですが、勉強も野球も頑張れる子という基準で取ろうとすると、静高、掛西といった公立校と競合するんです。地元にも振り向いてもらえるようにしていかないといけないですが、今は県内のシニア、ボーイズも(選手の送り先として)県外に目が向いてます。選手を獲得しなきゃならないので(有名校に送りたいと考えるのは)仕方ないことなんですが」
―御殿場、浜松商、浜松南、掛川西とさまざまな学校での経験が今に生きていますか。
「御殿場3年目の年は練習試合で一度も勝てなかったんですが、一生懸命さは浜商より上でしたね。当時の教え子たちは今60歳ですが、今年の(静岡大会)1回戦からずっと球場に応援に来てくれていたようです。

浜商時代は夏休みは朝9時から夜10時まで練習。何かミスをすると最初からやり直し。教室まで戻って全て(着替えから)をやり直しする。問答無用でしたね。選手は、どうやってここを切り抜けるか、という知恵がありましたね。役者を演じてるんですよ。
『三振するなよ』と怒る指導者がいますが無理なことで、120キロしか出ない子に『140キロ投げろ』と言っても技術的に無理。ただ、自分もそれに気付いたのは浜松南に行ってからです。浜商ではみんなできちゃってたから。120キロしか出ないなら、どうやって120キロで抑えるのかを教えないと。強く振れとか強く投げろとか言っても駄目。どうやったらそれができるのか、ということを教えないと。できるかできないかは選手の努力次第。浜松南での経験は掛西でもマッチしましたね」
―秋の県大会が9月13日から始まります。
「(夏のスタメンの)高部、大島(歩真)、江成(大和)を中心に9人はそろう。相手うんぬんより、自分たちがどうするかが大事。高部をどうやって打ちにくるか、打線をどう封じにくるか、ですね」
(編集局ニュースセンター・結城啓子)

【取材後記】
甲子園での戦いを終え、浜松市にある学校に戻った上村監督。休む間もなく校長の職務にあたっていました。大会期間中にオープンスクールがあり、甲子園からリモートで講話をしたそうです。グラウンドでは帰浜翌日から練習再開。エース高部投手をはじめ、1、2年生は秋の県大会に向かって汗を流していました。
