
『伝馬』とは、古代から続く公用の交通制度のことだ。1601年、徳川家康が東海道を整備し、各宿場に人足と馬を備えるように命じ、府中宿には人足100人、馬100匹が用意されたという。その伝馬制度の拠点となったのがここ伝馬町であった。江戸時代を通じて東海道の要衝として整備され、身分の高い大名が宿泊する本陣や脇本陣、荷物の検査を行う貫目改所(かんめあらためしょ)、馬や人を手配する問屋場など、交通・物流の機能が次々と集まった。家康が大御所として駿府城に在城し、政務を執り行ったお膝元として幕府の〝始まり〟を支えた場所でもある。また、東海道を往来する大名たちはここで一旦道を外れ、家康を祀る久能山へと参詣したという。
そして幕末、この場所は歴史のもう一方の端にも立ち会うことになる。1868年、官軍が江戸へ向けて進軍する中、伝馬町の旅籠『松崎屋』で、歴史を変える会見が行われた。山岡鉄舟と西郷隆盛による会見だ。一般には勝海舟の命令と語られることが多いが、実際には謹慎中だった徳川慶喜が直接、使者の派遣を命じたものだという。本来であれば慶喜の護衛を務める高橋泥舟が適任だったが、慶喜のそばを離れられなかったため、その親戚にあたる山岡鉄舟が選ばれた。山岡は西郷との面識がなく、事前に勝海舟のもとを訪ねて情報を集め、紹介状を依頼。さらに、江戸の町に火を放とうとして捕らえられていた薩摩藩士・益満休之助を解放し、彼を道案内役として東海道を下り、伝馬町へと向かったそうだ。この会見が下地となり、江戸城の無血開城が実現。戦火から江戸の町が救われたのである。
1869年に『静岡宿』と改称された後、1915年に再び『伝馬町』の名が復活。1940年の静岡大火、1945年の静岡大空襲と、二度にわたる壊滅的な被害を受けながらも、戦後は周辺の鋳物師町(いもしちょう)や誉田町(ほんだまち)などと合わさり、江戸時代よりも広い町として再生を果たした。
幕府誕生の礎となり、その終焉を静かに見届けた伝馬町には、歴史の痕跡を今に伝える史跡が点在している。『西郷山岡会見之史跡』の碑はペガサート横に、江戸幕府の命で1806年に完成した『東海道分間延絵図』から府中宿の町並みを拡大表示した『伝馬町歴史』モニュメントはウィステリア伝馬町タワーの敷地内に、そして大名たちが久能山へと向かった『久能山東照宮道』の碑は、伝馬町小学校付近の旧東海道にそれぞれ設けられている。ぜひ一度、この機会に歴史ある町を散策してみてはいかがだろうか。










































































