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浜松の持参米飯 終了へ

 浜松市の小中学校で1978年から続いていた、給食用白米を自宅から持参する「持参米飯」の取り組みが2021年度末で廃止されることになりました。一時は全国的にも注目された取り組みでしたが、時代の流れとともに表舞台から去ることに。歴史を振り返りたいと思います。
 〈静岡新聞社編集局TEAM NEXT・尾原崇也〉

浜松市教委方針、給食費公会計化導入を機に廃止へ 現在110校実施

 浜松市教育委員会は11日の市議会市民文教委員会で、1978年から現浜松市内の多くの小中学校で続けられてきた給食時の「持参米飯」を本年度末で廃止すると説明した。週1回、家庭から米飯を持参して給食のおかずと一緒に食べる市独自の慣例だった。2022年度から給食費を市内で統一し、市が一括管理する「公会計化」導入を機に廃止する。

浜松市内の多くの小中学生が週1回、家庭から持って行く「持参米飯」(清水三貴子さん提供)
浜松市内の多くの小中学生が週1回、家庭から持って行く「持参米飯」(清水三貴子さん提供)
 市教委によると、持参米飯には「朝にご飯を炊き、朝食を取る機会を増やす」「給食費を抑えられる」などの狙いがある。2005年の12市町村合併前から浜松市、旧浜北市、旧雄踏町で行われ、現在も110校(76・3%)が実施している。
 一方、市内では合併後、持参米飯だけでなく、給食費の金額も旧市町により異なっていた。市教委は給食運営の在り方を統一するため、各校の教職員に任せてきた給食費の徴収・管理を改め、市が一括管理する「公会計化」の導入を決めた。
 持参米飯については近年、保護者から「準備が大変」「食中毒が心配」などの声も強まっていた。持参米飯の廃止を市教委に求めてきた南区の清水三貴子さん(45)は「気温が高い日は衛生面が不安だった。今は多くの母親が仕事を持ち、外国籍の子どもも多い。廃止は時代の流れだと思う」と話した。
 ■元記事=浜松独自の慣例「持参米飯」やめます 市教委方針、給食費公会計化導入を機に〈2021.5.12 「あなたの静岡新聞」〉

ルーツは磐田郡豊岡村 親子つなぐ「愛情弁当」【NEXT特捜隊】

 「うちの子が通う小学校では毎週月曜、弁当箱に白いご飯を入れて持っていきます。いつから、なぜ始まったのか、気になります…」

おかずの入ったトレーの横に白飯の入った弁当箱を置き、給食を食べる児童=浜松市内
おかずの入ったトレーの横に白飯の入った弁当箱を置き、給食を食べる児童=浜松市内

 浜松市東区に暮らす女性(36)は長女が今年、小学校に入学。学校からの持ち物の指示に「米飯」と書いてあるのを見て、はっとした。「あ、私も持って行ってた!」。おかずは給食で出る。持参するのはご飯だけだ。少し調べたら、浜松市だけという情報も。気になって静岡新聞社「NEXT特捜隊」に調査依頼を寄せてくれた。
 まずは現場へ。市内の小学校を訪ねた。持参する曜日は学校により違うらしい。この日は木曜日。午前中の授業が終わり、給食の時間に。それぞれが持参した弁当箱を開け、おかずトレーの横に置いた。静岡市出身の記者には新鮮な光景だが、児童たちは至って自然な振る舞いで、びっくり。
 米飯給食はパンが主流の中、1970年代以降、全国に広まった。浜松市教委によると、旧浜松市内では78年に始まったという。最初から持参? 経緯は? 浜松では長年当たり前のこと。市教委担当者も即答できなかった。
 膨大な過去資料が眠る静岡新聞社調査部で、当時の新聞紙面をさかのぼった。
 同年4月20日付の朝刊に「米飯給食『豊岡方式』を採用 浜松市内全小中校 六月ごろから実施」の見出し。豊岡は当時の豊岡村(現磐田市)のことだ。磐田市教委によると、76年に米飯給食を開始。村が弁当箱を子どもたち一人一人に配り、白飯を家庭から持参する方式は「愛情弁当」として注目を集め、全国から視察も相次いだという。
 浜松市の「ご飯だけ持参」の“起源”はここにあった。ちなみに袋井市など近隣にも普及したが、県学校給食会などによると、県内で現在も豊岡方式を継いでいるのは豊岡地区の小中3校と浜松市内の小中学校110校だけらしい。
 再び浜松市教委で聞いた。40年余にわたり週1回続けている理由は大きく三つ。(1)保護者が給食や食育に目を向ける機会に(2)食に関する親子のコミュニケーションを促進(3)主食費を抑え、地産地消のおかずを充実―が挙げられるという。
 取材の過程で一部保護者からは「夏場は食中毒が心配」「朝の用意が大変」など負の側面を指摘する声も聞いた。市教委もそうした意見があることは把握しているが、「すぐに結論を出そうという状況にはない」という。
 前段で市内の小学校を訪ねた折、6年生に聞いた。「お母さんに体育の授業があると伝えたら、ご飯をたくさん入れてくれる」「好きな『ゆかり』をかけてくれるからうれしい」。「ご飯の日」、子どもたちからは好意的な声が続いた。
 余談だが持参の米飯は基本、白飯。梅干しや一部のふりかけは認められている学校が多い。市教委によると、炊き込みご飯などは具材によっては傷みやすいため、禁止されているという。
 ■元記事=浜松では週1回、給食に「ご飯」持参 ルーツは…豊岡村【NEXT特捜隊】〈2020.7.16 「あなたの静岡新聞」〉

1978年、浜松市内全小中学校で開始 父兄からも要望強く

 【浜松】浜松市教育委員会は市内の全小中学校で、家庭で米飯を弁当箱に詰めて持参させる、いわゆる「豊岡方式」による米飯給食を週1回程度実施する方針を決め、六月(※1978年6月)ごろから徐々に各学校に浸透させていくことになった。

「豊岡方式」の米飯給食採用を報じる1978年4月20日付静岡新聞
「豊岡方式」の米飯給食採用を報じる1978年4月20日付静岡新聞
 この米飯給食問題は、同市教委が昨年テスト的に市内の十一小中学校で行ったところ好評を得たこと、またアンケート調査でも父兄からの米飯に対する要望が強かったため、全校実施に踏み切った。
 現在浜松市では五十六の全小学校と、中学校二十五校中十七校が完全給食を実施している。最近、全国的に給食の米飯化が話題となり、なかでも浜松市近隣の磐田郡豊岡村が行っている方法は、「豊岡方式」として全国の注目を集めている。これを受けて同市では昨年度南、佐藤、城北、芳川、三方原、入野、積志の七小学校と江西、湖東の二中学校でテスト的に実施、また自主的に中ノ町と和田の二小学校も参加した。
 この結果、子供たちからは大好評、父兄からも大賛成の声が上がった。同市教委はこの米飯給食により家庭の愛情、母親の心を子供に伝えるという一石二鳥の効果をねらっている。
 米飯給食の回数は各小中学校の判断にまかせていく方針だが、できれば週一回か、少なくても月に二回ぐらいは実施したい意向だ。
 〈1978.04.20 静岡新聞朝刊〉

磐田郡豊岡村の“アイデア村長”藤森氏が考案 「給食に母子のふれあいを」

 戦後日本の学校給食は、子供たちをまず飢えから救うことにあった。米国の援助による小麦と脱脂粉乳が使われ、給食はパンが主体だった。それが変わるのは昭和四十年代、国内産米の過剰時代を迎えてからのことだ。四十六年には減反による生産調整が始まり、コメの消費拡大は国政の重要課題となる。五十年に入ると、各地で給食への米飯導入が本格化し始める。

藤森常次郎元村長の死去を報じる1998年9月4日付静岡新聞朝刊
藤森常次郎元村長の死去を報じる1998年9月4日付静岡新聞朝刊
  「コメの弁当を持たせることで、給食に母と子の触れ合いを取り入れられないか」―。静岡県西部の穀倉地帯・磐田郡豊岡村で五期目の村長を務めていた藤森常次郎(85)はこのころ、学校給食に独自のアイデアを盛り込みたいと日々、思案を重ねていた。
  余剰米対策という政治的思惑でスタートした米飯給食は着実に広がっていた。「他のまねはしたくない」。農家の出で二十二年に国民協同党から県議初当選。三十四年からは故郷で六期二十四年にわたって独自の地域農政を展開し、ワンマン村長として知られた藤森は一方で、若きころ師事した民俗学者柳田国男に「人づくりの大切さ」を教えられ、「村づくりは人づくり」をモットーとするアイデア村長でもあった。
  「弁当を通じて母子のつながりをもう一度深めたい。朝、弁当箱を手渡して『いってらっしゃい』と子を送り出す。それが人情のきずなであり、心豊かな人をつくる基本になる」。藤森は周囲を説いた。五十年の秋、村の学校給食センター所長の鈴木富雄(63)に米飯持参の給食の研究を命じる。長年藤森に仕えた鈴木は、弁当持参給食の実施に対する藤森の並々ならぬ決意を察していた。
  「朝、母親が詰めたと同様の温かいご飯を昼に食べられること」。これに藤森はこだわった。鈴木にとっては難題だった。保温庫を学校に備える方式を考えるが、当時どこのメーカーも弁当用の保温庫など作ってはいない。「できるだけコンパクトに」「維持管理は簡単に」―。鈴木は栄養士、調理員らと現場で顔を突き合わせ、意見を出し合った。メーカーにも熱意が伝わり、鈴木らの要望を受けて技術者の豊岡参りが続いた。試行錯誤を重ねてようやく、今使われているものの原形となった保温庫が完成し、五十一年四月に新しい給食が始まった。
  正午、給食を知らせるチャイムが鳴ると、村の三つの幼稚園と三つの小学校、それに唯一の中学校では園児、児童、生徒が大きな保温庫から自分の名前が刻まれた弁当箱を取り出す。中にはお母さんがその朝詰めてくれたあつあつのご飯。おかずが配ぜんされると「いただきます」の元気な声とともに、楽しい昼食が始まる。
  村では、この給食を「愛情弁当」と呼ぶ。この愛情弁当のために村は全園児、児童、生徒に無償で弁当箱を配布する。週三回、各家庭でこの弁当にご飯を詰めて持たせ、副食は従来通り給食センターで調理する。給食制度と弁当の合体だ。各地で進められている米飯給食だが、米価審議会委員の経験もある藤森の愛情弁当は当初から異彩を放っていた。
  とはいえ導入前、「学校、親の理解が得られるか」との心配はあった。しかしアンケートを採って不安は薄れた。弁当持参を支援する母親は八割を超えた。「これなら大丈夫」。保温庫の開発という難関も乗り越えた鈴木らは、愛情弁当の行方に自信を深めた。
  朝、豊岡村の母親たちは忙しい。長津由紀江(38)もそんな母親の一人で、高校二年を頭に三人の子供を学校へ送り出す。愛情弁当とは上の子の幼稚園入園からの付き合いで、今も中三、小六の二人の子の弁当箱に白米を詰めながら、昼のわが子の表情を思い浮かべる。「ご飯だけですから負担も軽いし、何より子供たちが喜んで食べてくれる」と長津は笑みをこぼす。
  豊岡村の取り組みは全国から関心を呼び、視察が相次いだ。「教育関係者や議員、農業関係者らが大挙して訪れたことも」と鈴木。兵庫や福井、岩手などの自治体にも豊岡方式は広がった。「バランスの良い栄養という点から、完全給食を推進している」とする県教委だが「弁当を通じて親子のつながりをつくるという教育効果には注目したい」と甲野藤茂主席指導主事は話し、学校給食と家庭の連携が子供の適切な栄養摂取に必要、と強調する。
  とはいえ、主婦の社会参加、共働きが当たり前になりつつある時代、母親にとって弁当作りは負担だ。給食への依存が高まっているのも現実だ。平成四年六月、埼玉県東端の小さな町・庄和町が突如、全国の注目を集めた。「町内の小中学校の給食を廃止する」。当時の町長神谷尚(故人)が打ち出したこの方針をめぐり、静かな町は半年近くにわたって激しく揺れた。
  現町長の石原弘(52)は当時、町議会の文教委員長で、与党として神谷を支えていた。その石原でさえ、神谷の給食廃止という考えは「何も聞かされていなかった。あまりに唐突だった」という。母親らは一斉に反発する。その勢いは「想像を超えるすさまじいものだった」と石原。町内各所で町が開いた説明会は母親らでどこも満杯。「納得がいかない」「給食は行政の義務」「主婦の立場を考えて」。ば声も飛び交い、町幹部らを取り囲む。「暴動に近い感じだった。住民のどこにこんなパワーがあったのかと思った」と石原は回想する。
  学校給食制度始まって以来というこの論争は、さなかに神谷が病に倒れて同年十月に他界するとともに収束へ向かい、結局、給食存続で決着する。石原は今、「庄和町の場合、『廃止』という方針がいきなり飛び出してしまった。豊岡村のような”理念”を、まず先にきちんと訴えるべきだった。そうすれば結果はどうあれ、もっといい形で議論ができたと思う」と語る。
  敗戦による貧窮のどん底から、わずか五十年で世界有数の豊かさを誇るまでになった日本。「だけど日本人が本来持っていた隣人愛、人情は薄れてしまったのでは」と藤森は言う。「だれが悪いというわけではない。しかし米国の占領政策によって豊かさを与えられた日本人は、引き換えに大切な日本の心というべきものを失ってしまったのではないか」。米国の食糧援助で始まった学校給食にも、その一端が垣間見える―と藤森は飽食の時代に思いを巡らす。(文中敬称略)
 〈1995.05.17 静岡新聞朝刊 連載「戦後50年・第2部-静岡 光と陰=豊岡村の『愛情弁当』」〉
地域再生大賞