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【長谷部誠引退⚽過去記事公開】不遇でも努力、チャンス生かし成長 W杯ブラジル大会直前連載「輝きのルーツ」から

※2014年5月15日 静岡新聞朝刊より
 個性派ぞろいのチームをまとめる統率力と闘志むき出しのプレー。この男がキャプテンマークを巻くことに誰も異存はないだろう。しかし、名実共に日本の主将になった長谷部誠(ニュルンベルク)は、常に日の当たる道を歩いてきたエリートとは違う。藤枝東高時代は不遇をかこった時期も長かった。  輝きのルーツ~W杯県勢3戦士(上)=長谷部誠(ニュルンベルク、藤枝東高出)-不遇でも努力、チャンス生かし成長  1学年下には、成岡翔や大井健太郎(ともにJ1新潟)ら将来を嘱望された全国区の選手がずらりといた。2年の秋まで万年補欠。後輩が次々とAチームに昇格する中、Bチーム暮らしが続いた。先発を確保しても、チームの主役は常に成岡だった。
 藤枝青島中時代の恩師滝本義三郎(70)=焼津市保福島=は「中学時代はお山の大将。高校で『井の中の蛙(かわず)』だったことを知った。必死に努力しただろう」と話す。
 周囲が急成長を感じるようになったのは高校3年の夏。成岡が年代別代表の合宿でチームを離れ、中盤右サイドを定位置にしていた長谷部がトップ下に回ったのがきっかけだった。ピッチの中央で得意のドリブルとスルーパスを繰り出す姿は水を得た魚のようだった。当時監督の服部康雄(島田工高校長)は成岡を最前線に上げ、長谷部のトップ下続行を決断した。これがはまり、チームは全国総体で準優勝を果たした。
 服部が忘れられないのは、全国総体後のSBSカップ国際ユースで静岡ユースの長谷部がU―18日本代表相手に見せたパフォーマンスだ。日の丸選手を差し置き、誰よりも輝いていた。
 試合直後、服部は当時U―18代表を率いていた田嶋幸三(日本サッカー協会副会長)をつかまえた。「長谷部を代表に入れた方がいい」。20人以上の年代別代表選手を送り出してきた服部をそんな思いにさせたのは、後にも先にも長谷部だけ。その成長ぶりは「『ぐんぐん』という言葉がぴったりだった」。世界に近づいた瞬間だった。
全国高校サッカー選手権県大会準決勝の静岡学園高戦で、ドリブルで攻め上がる藤枝東高時代の長谷部誠。周囲も驚く急成長ぶりだった=2001年11月、日本平スタジアム  高校卒業後に入団した浦和レッズでも、6年前に移籍したドイツでもそうだった。ベンチを温める時期が続いても、腐らない。訪れたチャンスを逃さずに指揮官の信頼を勝ち取り、いつの間にか自分の居場所を確保している。「自分が何を求められているか。周囲を見渡し、しっかり判断できる」と滝本はその能力に舌を巻く。
 右膝の故障から復帰したばかりで、ワールドカップ(W杯)でも定位置は確約されていない。それでも恩師は、長谷部ならどんな立場になっても自分の果たすべき役割を見つけ、必ず日本の力になれると確信している。(敬称略)

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