旭姫ってどんな人? 築山殿亡き後の家康正室 兄秀吉により前夫と強制離縁、豊臣と徳川の架け橋に

旭姫の生涯
南明院蔵の旭姫の肖像画(部分)
 旭姫(朝日姫)は天文12(1543)年、尾張生まれ。父は竹阿弥(ちくあみ)、母はなか(大政所・おおまんどころ)で、豊臣秀吉の異父妹。秀吉の配下だった地侍の佐治日向守と結婚するも夫は不祥事で切腹したとされる。その後、秀吉に仕えていた武将・副田甚兵衛吉成と結婚。しかし秀吉と家康が対決した「小牧・長久手の戦い」の講和にあたり、秀吉は家康を懐柔するため、旭姫を強制的に離縁させて家康に嫁がせたとされる。離縁させられた吉成は出家したとも憤死したとも伝わる。ただ、旭姫の夫が誰だったのか、どの時点で離縁したかについては諸説ある。
 旭姫は天正14(1586)年、浜松城へ輿(こし)入れした。当時、家康は45歳、旭姫は44歳だった。旭姫は家康に伴い浜松城から駿府城へ移ったが、母・大政所の病気見舞いのため、上洛(じょうらく)して自らも病気となった。摂州有馬(現兵庫県)で湯治をしたが、天正18(1590)年に亡くなった。
 秀吉が東福寺南明院(京都市東山区)10世の天翁和尚に帰依していた縁で、同院に葬られた。同院所蔵の肖像画の文「賛」には「婦徳温淳」などとあり、温厚で貞淑だったと伝わる。瑞龍寺(静岡市葵区井宮町)にも旭姫の墓があり、分骨されている。墓を建てたのは秀吉との説もあれば、家康との説もある。

旭姫の眠る瑞龍寺(静岡市葵区井宮町)
旭姫の墓がある瑞龍寺=静岡市葵区井宮町  現在も賤機山の西麓に鎮座する瑞龍寺。本堂など寺の各所には、豊臣の家紋「五七桐(ごしちのきり)」があしらわれている。旭姫が使用していた小袖のほか、秀吉が小田原攻めの際に使用したとされる高級な蒔絵膳(まきえぜん)、秀吉が旭姫の菩提(ぼだい)を弔うよう同寺に命じた朱印状、家康が寄進した「釈迦(しゃか)三尊像」「十六羅漢絵像」が所蔵されている。

徳川四天王 旭姫との婚姻~秀吉への臣従の場面でも存在感
浜松市博物館蔵の「徳川十六将図」(部分)。左上は酒井忠次、右上は本多忠勝、左下は榊原康政、右下は井伊直政  家康家臣・松平家忠の日記「家忠日記」などによると、家康は旭姫との婚礼にあたり、秀吉の元へ家臣・天野景能(康景)を遣わした。しかし秀吉は、景能は知らない人物で、酒井忠次か、本多忠勝か、榊原康政を寄こすべきだと主張した。これに対して家康は「小牧・長久手の戦い」の和睦破棄も意識したが、同戦で家康と組んだ織田信長の息子・信雄の使者らが説得。家康は、忠勝を秀吉への使者とし、旭姫の輿入れが実現した。
 輿入れ行列には秀吉や信雄の家臣もお供し、嫁入り道具も多数運ばれ、非常に豪華だったという。旭姫は浜松城での婚礼の前に康政の邸宅で休息したと伝わる。
 旭姫の輿入れ後も、秀吉は家康に上洛・臣従を求めた。家康家臣・大久保忠教の著書「三河物語」には、上洛に反対した酒井忠次ら家臣を家康が説得した様子が記されている。秀吉は家康上洛にあたり、人質として実母・大政所を家康に預けた。家康はついに折れ、上洛して秀吉に臣従した。その間、大政所は井伊直政に預けられ、秀吉方へ送り届ける役割も果たしたという。

家康がよく分かる 正室・側室/人柄/戦い
特設サイト「静岡人必読 今さら聞けない 徳川家康」

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