家康の側室 お万の方ってどんな人? 嫉妬した築山殿に浜松城で折檻された説 家康次男・結城秀康の母 おこちゃ、長勝院

お万の方が於義丸を出産したとされる中村家住宅=浜松市西区雄踏町宇布見
お万の方が於義丸を出産したとされる中村家住宅=浜松市西区雄踏町宇布見

お万の方の生涯
 天文17(1548)年生まれ(諸説あり)。現在の愛知県知立市にある知立神社の神主(吉英)の娘。おこちゃ、長勝院、小督局とも呼ばれた。
 松平元康(徳川家康)が初陣で三河の寺部城を攻めた際、吉英方を訪れ、当時2歳だった菊(お万の方)との縁組を約束したという説がある。元亀元(70)年の家康の浜松城入城に伴い、城へ入った。
 城で奉公していたお万の方はいつとなく妊娠したが、家康は「覚えがない」と認めなかった。城に住むことが難しくなったお万の方は、家康家臣の本多重次の計らいで代官の中村家住宅(現浜松市西区)へ移り、 天正2(74)年に家康次男の於義丸(結城秀康)を出産した。胎児を包む膜に葵の紋があり、家康の子と信じられたという言い伝えが残る。
 それでも家康は納得せず、お万の方と重次は勘当され、家臣らからの献上品もなかったとされる。後に家康長男の信康のとりなしで、家康は於義丸と対面し、ようやくわが子と認知された。 家康が出産後もしばらく認知しなかった理由については、正室の築山殿の怒りを恐れた、 双子で縁起が悪いと考えられた、当時は戦続きで忙しかった―などが考えられている。こうした事情から、お万の方は家康から寵愛(ちょうあい)を受けなかったとされる。
 史料「柳営婦女伝叢」には、お万の方が妊娠した際、嫉妬深い築山殿に折檻(せっかん)されたと記されている。
〈築山殿嫉妬深き故、於萬の方を赤裸にして縛て、濱松城の曲輪樹木の間に捨置きしに、 其此本多作左衛門御留守在城し、夜中女の啼き聲聞ゆるを怪み尋得て、彼女の縛など解て〉
 ただ、築山殿は岡崎城で暮らしていて、お万の方への折檻は成り立たないという指摘もある。 於義丸は家康と羽柴(豊臣)秀吉が争った「小牧長久手の戦い」講和の人質として、秀吉の養子となった。後に結城城(現茨城県)城主の結城晴朝の養子となり、結城秀康と名乗った。 関ケ原の戦いの戦功で初代福井藩主となり、北庄城を改変して福井城を造営するなど藩の礎を築いたが、慶長12(1607)年に34歳で生涯を閉じた。
 お万の方は於義丸と行動を共にしていたとされ、於義丸の死後に剃髪(ていはつ)した。元和5(19)年に越前北庄で亡くなった。
(雄踏町郷土資料部報や郷土史家の嶋竹秋さんへの取材を元に作成)
於義丸出産の地 中村家住宅(浜松市西区雄踏町宇布見) photo01 土間の小屋裏。ガイドは「ここが中村家住宅の見どころ」と語る
 中村家由緒書によると、初代の中村正範(まさのり)は、源頼朝の弟である範頼の庶子。駿河国守護の今川氏に招かれて14代の正実(まさざね)が遠江入りし、文明15(1483)年、宇布見に屋敷を構えた。
 中村家住宅は約3千平方メートルの敷地内に建つ、平面積約240平方メートルの規模の大きな古民家。昭和48(1973)年に国の重要文化財に指定された主屋は、寄棟造りの茅葺(かやぶ)き平屋建て。 貞享5(1688)年の姿が復元されている。土間では、曲がりくねった松の梁がむき出しとなった小屋裏が見られる。
 お万の方が出産したとされる離れ「御誕生の御殿」は現存していないが、主屋の縁側には床に渡す横木「根太(ねだ)」が長くあり、かつて渡り廊下があったことを示している。
 敷地内には於義丸を出産した際の胎盤を埋めた「胞衣塚(えなづか)」、家康お手植えと伝わる数代を経た梅の木、於義丸の出世を願って竜の横たわる姿を表現したいう説のある石積みなどが残る。
(浜松市西区まちづくり推進課への取材を元に作成)
妊娠中に匿われた「おこちゃ屋敷跡」(湖西市)
 湖西市発行の「湖西風土記文庫」には、家康の風呂の着替えを手伝っていて懐妊した美しいお万の方が、その事実を知った築山殿になぶりたたかれた逸話が記されている。 お万の方は本多重次に助け出され、郷士の豊田六郎左衛門宅(現湖西市太田)に連れてこられ、40日ほど滞在した後、中村家住宅に移ったとされる。 六郎左衛門宅跡は、お万の方の通称から「おこちゃ屋敷跡」とも呼ばれる。
(湖西市風土記文庫を元に作成)

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