「徳川四天王」最年少の美男子 井伊直政ってどんな人? 不遇の幼少経て武勇と知略で大出世 家康に最も信頼された家臣

龍潭寺に安置される井伊直政の像
龍潭寺に安置される井伊直政の像

井伊直政の生涯
 永禄4(1561)年生まれ。幼名は虎松。父は今川氏家臣の直親、母は井伊家分家・奥山朝利の息女。井伊直政は初代彦根藩主(滋賀県彦根市)として知られるが、出身地は遠江国(浜松市)。 酒井忠次、本多忠勝、榊原康政とともに徳川家康を支えた「徳川四天王」の中で一番若く、家康から最も信頼された家臣だったとされる。井伊直虎は養母。
 生まれた翌年に父・直親が今川氏真から謀反の疑いを受け、掛川城主の朝比奈泰朝に襲撃され討ち死にした。井伊家22代当主・井伊直盛の娘が虎松の後見人になり「井伊直虎」と名乗って井伊家を支えた。
 虎松は15歳になった天正3(1575)年、徳川家康に目通りした。家康は虎松の父・直親が家康との内通を疑われて命を落としたことを覚えていて、家臣に取り立てた。虎松は名を「井伊万千代」に改めた。
 天正10(1582)年、武田氏の遺領を巡って徳川軍と北条氏直軍がにらみ合った若神子(わかみこ)対陣で、22歳の井伊万千代が徳川の使者を務め、講和に貢献した。 その後に元服して「井伊兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)直政」と名乗った。家康は直政に旧武田家臣の山県家の精鋭を付け、赤色の武具で統一した「赤備え」を用いさせた。
 羽柴(豊臣)秀吉と争った小牧・長久手の戦いで、直政は先手の大将として活躍するなど数々の戦で武功を立てて徳川軍の筆頭に。 豊臣秀吉死後の主導権を家康と石田三成が争った関ケ原の戦いでは、「徳川の戦」だと強調するために先鋒(せんぽう)の福島正則隊に先んじて開戦の火ぶたを切ったとの説がある。 戦後は近江の佐和山城主(滋賀県彦根市)になった。
 史書「徳川実紀」では、直政の容貌を「いやしからず只者ならざる面ざし」と記述している。息子の直孝についても「父直政が器量によく似てすぐれて見え候」と記されていることもあり、美男子だったと伝わる。
 家康への忠誠心は非常に強く、徳川家を去った石川数正との同席を断ったエピソードなどが伝わる。 戦では部下を差し置いて先陣を切り、生傷が絶えなかった一方、知略や外交手腕にも優れたという。慶長3(1598)年には、黒田官兵衛の息子黒田長政と盟約を締結。 2年後の関ケ原の戦いでは西軍の小早川秀秋を東軍に寝返りさせ、勝利を決定的にした。
 だが、関ケ原の戦いで敗走する西軍島津隊を追いかけている際に鉄砲で撃たれ、胴に当たった弾が跳弾して腕に傷を負った。それが元となって慶長7(1602)年、42歳で死去した。 亡くなる前は家老に向け、井伊家の家督を継ぐ者は徳川家への忠節を尽くすよう遺言を残した。
 直政死去後の井伊家は、江戸幕府末期に日米修好通商条約に調印した直弼らが大老を務めるなど、徳川幕府を支え続けた。
⇒徳川四天王ってどんな人?酒井忠次/本多忠勝/榊原康政/井伊直政【徳川十六神将①】
⇒徳川十六将ってどんな人?平岩親吉/鳥居元忠/大久保忠世…四天王だけじゃない重臣達【徳川十六神将②】
井伊の赤鬼 photo01   龍潭寺に展示される「赤備え具足」(許可を得て撮影)
 天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは、武具を赤色で統一した「井伊の赤備え」の井伊軍が活躍した。直政の鎧(よろい)は重さ約28キロある重装備だったとされる。 鬼の角のような意匠のかぶとをかぶり、先陣を切って長いやりで敵を蹴散らしていく姿が「井伊の赤鬼」と呼ばれた。
 直政は若くして出世したため、周囲の嫉妬を買った。そのため、自身にも部下にも厳しかったとされる。部下のわずかなミスも許さずにしばしば家臣を手討ちにしたため「人斬り兵部」と恐れられた。
井伊家の菩提寺・龍潭寺 photo01   龍潭寺の本堂=浜松市北区引佐町井伊谷
 現在の浜松市北区引佐町井伊谷に天平5(733)年の開創とされ、永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで戦死した井伊直盛の戒名をとって「龍潭寺(りょうたんじ)」と改めた。井伊家の菩提(ぼだい)寺で、境内の井伊家御霊屋(みたまや)には井伊家代々の位牌(いはい)がある。 24代直政、22代直盛、初代共保の像を安置。井伊直政が徳川家康から受けた葵紋入りの茶わんや、直政の身を案じて龍潭寺第2世南渓和尚がまつった観音菩薩(ぼさつ)などを所蔵する。小堀遠州作の庭園は国指定名勝。
(龍潭寺への取材、奥浜名湖観光ガイドの会作成「井伊の赤鬼」を基に作成)

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