病気で苦しむ人の力に 気持ち変わらない 東京大大学院工学系研究科教授(富士市出身)/高井まどか【あのころの私③】

 東京大大学院工学系研究科の高井まどか教授(55)=富士市出身=は現在、医療機器に使う新たな材料を研究開発している。病に苦しんだ幼少期の経験を原動力に、女性が働く環境が整っていなかった時代を切り開いてきた。

人工肺を手に、研究のやりがいを語る高井まどかさん=7月中旬、東京都文京区の東京大本郷地区キャンパス
人工肺を手に、研究のやりがいを語る高井まどかさん=7月中旬、東京都文京区の東京大本郷地区キャンパス
中学生時代の高井まどかさん(本人提供)
中学生時代の高井まどかさん(本人提供)
人工肺を手に、研究のやりがいを語る高井まどかさん=7月中旬、東京都文京区の東京大本郷地区キャンパス
中学生時代の高井まどかさん(本人提供)

 病気がちな子どもでした。小児リウマチを患い、発熱で寝込む日も多く、小学校低学年の頃は出席日数ぎりぎり。体質に合う薬がなかなか見つからず苦しんだ経験から、将来は薬剤師になりたいと思っていました。
 路線変更のきっかけは富士高時代、所属していた化学部顧問の先生から「高井は新しいものを創り出す仕事が向いている」とアドバイスをもらったこと。電池、せっけん、繊維-。部活で友達とものづくりを楽しむ姿を見ていてくれたんですね。調剤する薬剤師でなく、新しい薬を創り出す仕事を目指そうと大学で化学を学ぶことにしました。
 大学卒業は男女雇用機会均等法施行から5年目。性別による進路の違いはまだ大きく、当時の研究室から大学院に進学する女性はゼロ。私は当然のように就職しました。
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 でも入社した東芝で、結婚後も働き続ける先輩女性たちの姿を見て気付きました。自分が思っていたよりも女性は社会でやっていける。同時に、利益の追求より、純粋にサイエンスを追究したいという気持ちも強まりました。まだ女性が働く環境が整っていない時代でしたが、教職であれば男女が平等にやっていけると父も背中を押してくれ、「私は教授になる」と宣言して会社をやめて大学院に進みました。
 アカデミアの世界に戻ったものの、道をどう切り開いたら良いのか。私が得意なこと、人との違いは何か。富士高の恩師が見いだしてくださった通り、私は新しいものを生み出すのが好き。小学生の頃は学習誌「科学」と「学習」の付録を自宅に届いたその日に作り上げ、自宅の敷地内にあった金型工場の機械に興味津々な少女でした。
 また、多様な個性の人をまとめることが苦にならない点も強み。吉原一中時代は分け隔てなく友達関係を築け、友達の悩み相談に乗るのが得意だったため、生徒会副会長に推薦されました。
 人を育てながら、大好きな研究を続けたい。歩みを振り返り改めてそう思いました。教授になると宣言して退社したのだから、頑張らないわけにはいかない。男性には負けたくない。120%の成果を出そうと徹夜で研究する日も。無理を重ねました。でも今考えてみると、結果を出している人は性別に関係なく、みんな努力しているんですね。
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 現在は、人体に優しい医療機器の材料を研究しています。新型コロナで注目された人工肺では、血栓のできにくい材料を開発中です。病気の早期診断も重要なテーマで、がんをはじめ病気特有の物質を早く正確に感知できる装置開発も目指しています。
 研究フィールドは「バイオエンジニアリング」という、医学と工学の知見を組み合わせて社会で役立つ製品を開発する学問分野。学生時代に関心のあった薬学とは異なりますが、病気で苦しむ人の力になりたいという気持ちは変わりません。
 私が大学教授を続けている理由の一つは、女性だからという理由で、道が閉ざされてしまうことのない社会をつくりたいから。最近は「男女共同参画」という性別に重きをおいた言葉から「ダイバーシティ」という言葉を使って、性別、国籍、年齢などに縛られない社会づくりが進められています。どんな人も意志を持って踏み出せば道は開ける。学生のみなさんにはそう伝えたいです。
 (聞き手=教育文化部・鈴木美晴)
 たかい・まどか 1967年、富士市生まれ。富士高、早稲田大を経て東芝入社。退職後に同大大学院理工学研究科博士課程を修了。科学技術振興事業団特別研究員を経て、東京大大学院工学系研究科助手。講師、准教授を経て2011年から教授。

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