家康の嫡男 松平信康ってどんな人? 粗暴か大物か 非業の死遂げた若武者

信康像(勝蓮寺蔵をトリミング)
信康像(勝蓮寺蔵をトリミング)

信康の生涯
 永禄2(1559)年、駿府生まれ。父は徳川家康、母は家康正室の築山殿。幼名は竹千代。今川義元が織田信長に討たれた「桶狭間の戦い」後、家康が駿府の今川から離反して岡崎で自立したため、駿府に抑留されて今川の人質となった。永禄5年に家康と今川氏真の人質交換により、岡崎へ入った。
 永禄10年に織田信長の娘・五徳(徳姫)と結婚。元亀元(1570)年の家康浜松移転後、元服して岡崎次郎三郎信康と名乗り、岡崎城主になった。名前は舅(しゅうと)信長から「信」を、父家康から「康」の字を譲り受けたもの。
 初陣は天正元(1573)年、足助武節(現愛知県豊田市)への出陣とされる。岡崎奉行の大岡弥四郎ら家臣が武田氏と内通した「大岡弥四郎事件」の際、武田勝頼の岡崎侵入を阻止した。織田・徳川軍が勝頼に大勝した「長篠の戦い」にも出陣。「高天神城」(現掛川市)の勝頼からの奪還を家康と共に目指し、「馬伏塚城」(現袋井市)へ何度も出向いた。
 正室の五徳との間に2女をもうけるも、天正5年頃から不仲に。家康も信長も信康夫妻の不仲を気にかけていたと見られる。天正6年頃から家康と外交路線で対立。天正7年8月、家康の命令で岡崎城を出て、大浜(現愛知県碧南市)、堀江城(現浜松市西区)を経た後、同年9月15日に二俣城(現同市天竜区)で自刃した。
人物評 史料で違い
 信康の人柄を巡っては、史料により記述に差がある。家康家臣の大久保忠教の「三河物語」では立派だったと評価。「これ程の殿ハ、又出がたし」「御器用にも御座候らへ」として、自刃に際しては「上下万民、声を引て悲しまざるハなし」と人々が惜しんだと伝える。
 一方、粗暴だったとする記述も少なくない。著者不明の「松平記」では「あまりに荒き人で慈悲の心がない」と非難。同じく著者不詳の「当代記」でも、父家康の命令を守らない、舅信長のことを軽視している、家臣に残酷な仕打ちを行う―などと欠点が挙げられている。
不明点多い 自刃の原因 photo01 地元で“信康の涙”とも表現される滝=浜松市天竜区の清瀧寺
 信康自刃当時の史料は、家康家臣の松平家忠による「家忠日記」のみ。三河物語を記した大久保忠教は、自刃の地である二俣城城主・大久保忠世の弟であり、自刃の事情を知っていた可能性が高いにもかかわらず詳細な記述がない。
 三河物語では五徳が信康を中傷する12カ条の手紙を父信長に送り、信長が家康重臣・酒井忠次を呼び寄せて内容を確かめたところ、忠次が10カ条まで認めたため、信長が信康に切腹させることを決めたーと伝えている。
 しかし近年では、信康と五徳の不仲に加えて、武田と敵対する家康と逆に武田と組もうとした信康が、外交路線で対立したことが原因と見る研究者も少なくない。このほか、信康や築山殿が武田と内通して謀反をたくらんでいたとの見方もある。信長が自身の嫡男の信忠に比べて、家康嫡男の信康が優秀だったことに嫉妬したという説もある。
(浜松市立中央図書館調査支援グループ久野正博さんへの取材を元に作成)
信康が眠る清瀧寺(浜松市天竜区) photo01 信康の墓所「信康廟」=浜松市天竜区の清瀧寺
 応永12(1405)年に長安坊という僧が草庵(そうあん)を構えたのが始まりとされる。浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来。天正7年、自刃した信康のために家康が寺を建立、現在の名前に命名した。江戸時代終わり頃に失ったとみられる本堂を、静岡藩士・相原安次郎らが浄財を集めて大正頭頃までに再建した。
 寺の命名の由来となった滝は本堂に続く坂の下に今も残り、これまで枯れたことがないと伝わる。地元では〝信康の涙〟とも表現される。家康が奉納した聖観世音菩薩像(木像)も本堂に残る。信康の位牌、歴代徳川家の位牌、家康の木像もまつられている。
 信康の墓所「信康廟」は普段は非公開だが、11月3日の「天竜産業観光まつり」の際に公開を予定している。かつて境内にあった二俣尋常小学校に通っていた本田宗一郎が正午を知らせる鐘を30分早く突き、早く弁当を食べた―というエピソードも残る。運が良ければ寺猫のモコにも会える。
(清瀧寺への取材を基に作成)

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