静岡県勢初のJチェアマン 野々村芳和氏(清水東高出)「静岡のサッカー熱を日本中に」

 静岡県内出身者として初となるJリーグのチェアマンに就いた野々村芳和氏(50)=清水東高出=。王国と称された本県に生まれ、Jリーガー、クラブ経営者と歩みを進めてきた歴代最年少チェアマンは、地域全体で高いサッカー熱を誇ったかつての静岡の空気感を日本中に広げていくことを使命に掲げる。胸の内に迫った。

Jリーグチェアマンとしての抱負を語る野々村芳和氏=静岡市駿河区の静岡 新聞放送会館
Jリーグチェアマンとしての抱負を語る野々村芳和氏=静岡市駿河区の静岡 新聞放送会館


 ⚽4クラブの「作品」
 3月に第6代のチェアマンに就任。まずはJ1~3の全58クラブの本拠地訪問を目指し、全国を駆け回る。
 「どうしたら58クラブが成長できるかを考えるのが僕の立場。地域性や置かれた環境によって成長の仕方は全然違う。画一的というよりはそれぞれにあったやり方でJリーグとしてサポートすることがより求められていると思っている」
 質の高いプレー、スタジアムの雰囲気、サポーターの熱気でつくり上げるサッカーの試合を「作品」と表現する。県内には4クラブの「作品」がある。
 「歴史も長いJ1の清水、磐田の2クラブには一定レベル以上のものがある。J3の沼津、藤枝はこれからだと思う。サッカーの質の部分をすぐに埋めるのは難しいが、クラブが地域とより密着できて勝敗以外のところで応援したいと思える人が増えたら、J1の2クラブよりも作品として優れているということもありうる。勝敗以外の部分でどう地域の存在感を見せられるか、今後が楽しみ。静岡にはその土壌があるような気がする」

 ⚽原体験が将来像に
 9年間社長を務めた札幌では、クラブをJ1に定着させるなど経営手腕を発揮。今度はJリーグ全体を飛躍させる大役を担う。
 「現役時代のインタビューで、『自分が1回もボールに触らなくても勝たせることのできる選手になりたい』と答えていた。今やっているのは、まさにそういうこと。もちろん自分は動くが、得意分野を持つ周囲の人たちを生かしながらいかに皆で同じ方向を向いてやれる空気感をつくれるか。サッカーで学んだことをやっている」
 サッカーに対して地域全体で前向きな雰囲気のあった静岡での原体験が、自身の見据えるJリーグの将来像につながっている。
 「当時の僕らを取り巻いていたサッカーの環境は本当に良かったと思っている。メディアが子どもたちのサッカーから取り上げてくれて、それを見て周りのおっちゃん、おばちゃんが応援してくれたりした。情熱的な指導者の方々もいて。僕は静岡に生まれていなかったらこう(今の立場に)はなっていなかったと思うくらい。あの空気感を58クラブがあるエリアにどうやったらつくれるか。それが僕の今一番やりたいこと」

 野々村芳和チェアマンへの一問一答は次の通り。
 ―静岡県内のJクラブや高校サッカーの結果は気になるか。
 「札幌の社長をしていた時には当然ながらライバルとしての見方もあったが、高校サッカーは静岡県代表のチームを自然に応援しちゃう、みたいなところはある」
 ―磐田、清水のJ12チームの現状について。
 「僕もクラブの経営をやっていたからわかるが、上にいくのはめちゃくちゃ大変。ジュビロもエスパルスもJ1で頑張っているが、それ以外のクラブがこの10年間で売り上げも含めてどのくらい伸びてきたか、みたいなことを考えると、J1で上位にいくことすら(どのチームも)現状はかなり難しい。いろんな背景があるので、一つの理由で優勝できないわけではないと思ってほしいなと。やっぱり選手の強化に使えるお金が大きければ大きいほど勝つ可能性が高くなる。大都市ではないエリアに拠点を置きながら勝たせるようにするのは結構難しい問題だが、静岡ならできるんじゃないかと思う。というか思いたい。自分が小さい頃の静岡を取り巻く(サッカーに対する)空気はすごかった。あの空気があったから自分たちがサッカーで今も飯を食えている。そういう成功体験がこのエリアにはあるので、うまくもう一回あの空気感をつくれたら」
 ―自身のサッカーを始めた環境を振り返って。
 「サッカーは小学1年生で始めた。最初はおやじにソフトボールクラブに入れられた。でもなぜか冬になるころにはサッカーに変わっていた。自然だったのかなと。テレビでサッカー番組があったりして、メディアがサッカーを見せてくれた。そうすると小学生ながらに、『あのお兄さんたちみたいになりたい』って思った。その人たちが近くに住んでいたりするので、リアルな目標にもなった。小学5年生で栃木に転校した。清水にいれば清水FCで全国優勝できると思っていたので転校してすごく悲しかったが、栃木に行ったらもう、スーパースター。栃木の小学校の単独チームで全国大会に出たりしたので、栃木の人からしても『静岡のやつすげえ』と思ったと思う。そんな時代だった」
 ―県内出身選手が日本代表に食い込めない現状がある。
 「いくつか理由はあると思う。以前ほど静岡が圧倒的でなくなった。他の地域でも良い指導者が増え、サッカーのレベルが静岡に追い付いてきたという面が一つあるのかなと。あとは、現在の代表の先発メンバーの平均年齢は30歳くらいで、その選手たちが10歳頃に過ごした地域のサッカーを取り巻く環境や空気はどうだったか。今、静岡の選手がいないのは20年以上前に問題があったとしたら、と考えていかなければいけないのかなと思っている。僕らはサッカーの未来のためにいろいろな努力をしなければいけないが、今を取り巻く空気は30年後の代表チームに影響してくるはず」
 ―本県サッカー界に期待することは。
 「昔の静岡を知っている身としては、やっぱり静岡には圧倒的な面白い子が出てくる土壌であってほしいと思う。それは簡単じゃないことは重々承知しているが。『あの地域は特別な子が出てくるよね』というエリアは最近はそう多くはないので、やり方とか考え方によっては静岡がもう一度、面白いやつが出てくる地域になっていくはず。でもそれは1、2年でできることではないので、10、20年後を見据えて静岡の環境や考え方をつくっていけば、サッカー王国だなと感じてもらえるような選手が生まれると思う」
 ―チェアマンとしてどんなJリーグの針路を描いているか。
 「基本的に自分はサッカーに育てられてきて、サッカーの価値や魅力は絶対的なものだと信じて疑わない。サッカーだから大丈夫、と常に思える。だからこの先、10、20、30年とたってもサッカーが衰退していくことはないと思っている。サッカーに携わるとより楽しいんだ、幸せなんだと感じてくれている人は、例えば静岡にはかなり多くいると思う。そういう人たちを日本中にどれだけ増やせるかが重要なのかなと。地域の人たちが一番幸せを感じるのは、自分たちの関わりによってクラブが成長していくのを体験できることだと思う。サッカーはそういうスポーツだと思う。関わることが幸せだなと思えるようなクラブを一緒に成長させているんだ、という感覚を多くの人に味わってもらいたい」

ののむら・よしかづ 1972年、清水市(現静岡市清水区)生まれ。清水東高で89、90年度の全国選手権に出場。慶大を経て95年にプロ入りし、市原(現千葉)と札幌で中盤のボランチとして活躍した。Jリーグ通算154試合8得点。2001年に現役引退。解説者などを経て13年に札幌の社長となり、債務超過に陥ったクラブの再建、経営規模の拡大に尽力した。今年1月に社長を退任。チェアマンに就任した。

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