【「オトナのブカツ 音部TALK LIVE」第1回】「ハママツ・ジャズ・ウィーク」はこうして始まった。ヤマハ元社員が語る「なぜジャズだったのか」

静岡県のアートやカルチャーに関するコラム。今回は浜松市中央区のザザシティ浜松中央館で4月2日に行われた「オトナのブカツ 音部TALK LIVE」の第1回「ハママツ・ジャズ・ウィークは出会いから始まった。企業と人がつくった街の音」を題材に。 (文・写真/浜松総局・尾藤旭)

「オトナのブカツ」の「音部」初回に登場した山東正彦さん


社会人が趣味を通じて〝ゆるく〟つながるザザシティ浜松中央館の企画「オトナのブカツ」。音楽愛好者のための「音部」の初回は、アクトシティ浜松(浜松市中央区)を主会場に、昨年で33回目を重ねた「ハママツ・ジャズ・ウィーク」だった。

すっかり浜松の秋に定着した音楽イベントとなったが、その成功の裏には、「ドクター・ジャズ」と呼ばれた全国に知られるジャズ愛好家の存在があったのだという。ハママツ・ジャズ・ウィークを主催するヤマハの元社員で、立ち上げに携わった山東正彦さんがトークライブで明かした。

始まりは62年前にさかのぼる。1964年、日本楽器製造(現ヤマハ)の新入社員として名古屋ヤマハビル内の直営レコード店に配属された山東さん。その店で、毎月30枚ものジャズのレコードを買う“お得意さま”が、愛知県岡崎市の外科医内田修さん(1929~2016年)だった。

「クラシック一辺倒で、ジャズは聞いていなかった」という山東さん。内田さん宅へレコードの配達に通ううち、「手ほどきを受けて」自身もジャズの魅力にとりつかれていった。

会場に置かれた内田修さんの写真


内田さんが経営する医院は、スタジオ完備。愛知を訪れたジャズメンの〝たまり場〟になり、内田さんもいつしか「ドクター・ジャズ」の異名で知られるようになる。名古屋ヤマハビルでは「ヤマハ・ジャズ・クラブ」と名付けたライブシリーズがスタート。内田さんと親交を持つ前田憲男や秋吉敏子、渡辺貞夫といった人気ジャズ演奏家が集った。

時は流れて1990年代。ヤマハの管弦打楽器担当だった山東さんは、上層部から「地元に還元できる音楽イベントを」と指示を受ける。「一番管楽器を使う演奏家たち」として思い付いたのが、ジャズイベントだった。

「日本のジャズミュージシャンを呼ぶ」というコンセプトの下、監修者に内田さんが就き、92、93年は「ヤマハ・ジャズ・フェスティバル」の名前で浜松アリーナで開催。95年から完成したアクトシティ浜松に会場を移し、「ハママツ・ジャズ・ウィーク」と名を変えて今も続く。「最初は赤字。2、3年続けばいいと思っていた。ようやく5年目で(収支)トントンになった」

「日本のジャズの黄金時代を内田さんと一緒に過ごせた。我々が吸収したものを、次の人に伝えていかなければ」とトークに登壇した理由を明かす。「内田さんは私にとって〝親分〟。本当に人との出会いに支えられた」としみじみと「ドクター・ジャズ」との時間を振り返った。

内田さんのレコードコレクションやヤマハ・ジャズ・クラブでの音源は岡崎市に寄贈された。内田さんの遺影も掲げられたトークライブはその音源から、渡辺貞夫と高柳昌行、盟友2人のサックスとギターで奏でられたホレス・シルバーの「Peace」で締めくくられた。 

静岡県に関係する文化芸術、ポップカルチャーをキュレーション。ショートレビュー、表現者へのインタビューを通じて、アートを巡る対話の糸口をつくります。

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