【東京ステーションギャラリーの「小林徳三郎」展】沼津市江浦の風景が広がる。山口源とはニアミスか

静岡新聞論説委員がお届けするアートやカルチャーに関するコラム。今回は東京都千代田区の東京ステーションギャラリー で11月22日に開幕した「小林徳三郎」展を題材に。

兵庫県出身の洋画家小林徳三郎(1884~1949年)の画業を総覧する回顧展。東京美術学校を卒業後、萬鉄五郎、木村荘八、岸田劉生らとともに美術団体「フュウザン会」で活動した。今回展は学生時代のスケッチから、最晩年の風景画まで、作品と資料計約300点を展示している。

静岡にも縁がある美術家だ。今回展では、2階展示室の第2室に入ると、沼津市南部の海岸線の風景が広がる。旅館だろうか、2階の窓辺から海を見つめる女性を描いた「江の浦二」(1942年)。視線の先には小さな漁港と半島がある。「江の浦」(1940年)は静かな湾に漁師3人を乗せた小船が一つ。「残照(江浦)」(1942年)は茜色の空の下、蒸気船が寄港の直前か。「海」には特別な説明がないが、沼津市民ならずとも「あ、淡島だ」と気付くはずだ。

年表によると小林は1939年ごろから沼津市江浦や河口湖に通ったらしい。しかし同じ年表によると、1942年には「戦時下のため写生が規制され、江の浦もその対象になる」とある。彼の江浦スケッチは3年足らずだったようだ。

江浦と言えば頭に浮かぶのが、版画家の山口源だ。晩年を同地で過ごした山口だが、結婚に際して移住したのは1944年。妻・澄江の郷里だったから、結婚前にも訪れていたりはしないだろうか。小林との交流があったなら、と考えを飛躍させてしまう。

最晩年の「渓流」(1946年)


「小林徳三郎」展を歩くと作風の変化がはっきり分かる。フュウザン会で活動していた1910年代はサーカスやダンスホールといった西洋から流入した大衆文化を好んで取り上げているし、院展入選作に由来する「鰯の徳さん」との名で呼ばれていた1920年代は、タイやアジなどの魚を描いた。1920年代後半からは太い輪郭線で子どもたちを描写するようになる。

晩年には日本画にも興味を示した。軸装の「里芋」(1940年代頃)は丸々とした里芋の表面に、墨で凸凹をつけている。同じ東京ステーションギャラリーで2019年に開催された「没後90年記念 岸田劉生展」を思い出した。岸田もまた、晩年は日本画に取り組んでいた。ちょうど今回展の小林の日本画作品の展示位置に、岸田が描いたカボチャの絵があったはずだ。

最新の西洋絵画に学んだフュウザン会の二人が、時を経て同じように日本画の世界に入っていく。これは時代がそうさせたと見るべきか。はたまた二人の資質が似ていたからなのか。

(は)

<DATA>
■東京ステーションギャラリー「小林徳三郎」展
住所:東京都千代田区丸の内1-9-1
開館:午前10時~午後6時 ※金曜日は午後8時まで開館
休館日:月曜日(1月12日は開館)、年末年始(12月29日~1月2日)
観覧料(当日):一般1300円、高校・大学生1100円、中学生以下無料
会期:2026年1月18日(日)まで

終の棲家となった東京都豊島区周辺を描いた「夕景」(右、1948年)

静岡新聞の論説委員が、静岡県に関係する文化芸術、ポップカルチャーをキュレーション。ショートレビュー、表現者へのインタビューを通じて、アートを巡る対話の糸口をつくります。

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